1930年代のファシズムの台頭は、ヨーロッパにとって暗黒時代の始まりだった。それまでは大まかな傾向としてほとんどの科学者が、知識の探求は純粋な思いで公平な立場から行われるべきものという理解に立ち、少なくとも公の場では政治から距離を置いていた。
しかし、1930年代以降、あらゆる社会および経済の発展に科学が寄与することが明らかになるにつれて、政治に関与しようとする科学者が増えていった。そのような傾向が加速したのは、多くのユダヤ人科学者がドイツを逃れて全米各地の研究室や研究センターに移り、衝撃的な恐ろしい体験を語ったからだろう*6。
1940年、ライナス・ポーリングもファシズムを非難する政治的なスピーチをするようになり、アメリカは参戦の準備をすべきであると主張した。その数年後には広島が原子爆弾によって壊滅的被害を受けたことを新聞で知り、「非道きわまりない行為」だと語った*7。
「専門外の持論」を得意げに語る
彼の名声は高まり続けた。学部生向けに執筆した書籍『一般化学』は飛ぶように売れ、彼に富をもたらした。ポーリングはこうして有名になっていった。このことが、ビタミンCの物語にも深く関わってくる。
重大な社会課題の多くは、科学的な理解がまだ十分に進んでいなかった。
放射線が人体にどのような影響をもたらすのか、放射性粒子は風でどのように拡散するのか、それが地上に落ちると何が起きるのか、汚染された草を食べた牛はどうなるのかといった問題について多くの議論がなされたが入手できるデータは曖昧なものばかりで、原爆の影響に関する異なる見解を裏づけるために解釈を曲げることもできた。
難解で複雑な課題を公の場で議論するために、ポーリングをはじめとする多くの科学者が公人として重用され尊敬されるようになり、ときには科学的な専門知識の枠を超えて持論を得意げに語ることもあった。
1958年には、ポーリングは『ノーモアウォー』という挑発的なタイトルで著書を出版した*8。そのころにはすでに化学結合の解明に関する研究でノーベル化学賞を受賞していたが、さらに1962年、核爆弾に反対する活動でノーベル平和賞を受賞した。
そのためポーリングが生物学とヒトの健康、なかでもビタミンCに目を向けたころには、人々が彼の話に耳を傾けるための下地が整っていた。


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