与謝野晶子が『明星』(1904年9月)に「君死にたまふこと勿れ」を掲げ、大塚楠緒子が『太陽』(1905年1月)に「お百度詣」を載せたことには、『坂の上の雲』は言及しません。
与謝野は非戦の立場から詠ったのではないのですが、評論家・大町桂月が「国家観念」をないがしろにしたと論難する一幕もあり、ここでも日露戦争時の「国民」の分裂は顕わです。
司馬は組織内の分裂には敏感なのですが、こうした「国民」における対立と分裂――少数意見の存在や異議申し立て、告発といったことによって生ずる分裂と対抗については、描いていません。
司馬と戦後歴史学の間の「歴史認識」の隔たり
また、日本海海戦で物語を終息させたために、日本による朝鮮の植民地化、満州への進出といったことが主題としては消失してしまいました。
司馬が忌避する昭和期の軍部の「暴走」は、日本が台湾、朝鮮や樺太を植民地化したことと不可分に関連していますが、『坂の上の雲』では日露戦争の「勝利」ゆえの蹉跌へと論が方向付けられ、植民地については語られないままになってしまいました。
たしかにポーツマス講和条約の締結から、「南満州鉄道株式会社」の設立(1906年)、台湾縦貫鉄道開通(1908-13年)、「日韓併合に関する条約」(「韓国併合に関する条約」)調印(1910年)などの動きは(『坂の上の雲』が対象とする)「小さな日本」の範囲を越えています。
しかし、日露戦争を主題とするということは、この範囲までを射程に入れて歴史像を描くということになるでしょう。戦闘の終了と戦争の終結、さらに歴史像として描かれる戦争の終期はそれぞれ異なっており、どの範囲までを射程に入れるかは、歴史を描く問題意識と構想力にほかなりません。
司馬の認識は、日露戦争の勝利が「かならずしも国家の質的部分に良質の結果をもたらさず」にあった、という点にあります。勝利のゆえに混迷の道に入ったということですが、昭和期までいかずとも、日露戦争後、いや戦中からすでに「戦勝」の矛盾がみられます。


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