カントの「超越論的観念論」も、根本にあるのは同じ発想です。世界を構成し、意味づけているのは、この「私」だという考えです。
ところが普通は、自分が死んでも、世界そのものはそのまま残っている、と思い込んでいる。しかし、自分の認識を離れた世界そのものの姿を、私たちは知ることができません。これをカントは「物自体」と呼んでいます。
私の死後の世界も物自体も、まったくわからない
つまり、本当のところは、まったくわからないのです。そして、この「私の死後の世界も物自体もわからない」ということ自体が、実は救いでもあるのです。
道元の言葉に「修証一等」というのもあります。修は修行、証は悟り。修行した結果として悟るのではなく、修行することが、すなわち悟りなのですね。
今こうして話していることも、言われてみればそうだな、簡単なことだなと、直観的にわかること自体が悟りなのです。だから本当は、誰もがすでに知っていることなのです。
この点、西洋の哲学者たちの見方はずいぶん違います。西洋にはキリスト教、その背景にギリシャ哲学がありますから、向こう側に本物があって、「私」はそれを写す、という議論になりがちです。
こうした「私と世界の関係」を追求したのが、京都学派の西田幾多郎です。彼の「絶対矛盾的自己同一」という考え方も、この文脈にあります。
「私」と世界とは絶対に違うものでありながら、同一でもある、と言う。「私」と世界はまったく違うのだけれども、同一なのです。論理学を無視した話に聞こえるでしょう。


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