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ライフ #戦う哲学者の晩年の独白

死ぬのがあまり嫌ではなくなった"戦う哲学者"が、じわじわとわかるようになった「私はこの体の中にいる」という幻想

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中島義道 戦う哲学者
筆者は最近、介護施設でのショートステイを経験。部屋にこもって過ごしたという(写真は2013年の取材時のもの。撮影:風間仁一郎)
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また、禅ではこうした意識の働きを「無」という言葉で強調します。「私」はない。けれど、意識という目に見えない作用が確かに働いている。これを「能動的無」と言います。形としては「無」でありながら、ものすごい力を持って世界を成り立たせていると考えるのです。

サルトルの『存在と無』も同じような話で、例えば部屋の写真を撮っても、「ここに猫がいない」ということと「ここに犬がいない」ということの区別は写りません。けれど人間は、言葉によって「不在(無)」を理解できる。

「無」で、私たちの世界は満ちている

「これは赤くはない、青くもない、丸くもない」と、無の属性はいくらでも言える。そうした目に見えない言葉の作用――無で、私たちの世界は満ちているということなのです。

私たちが体を動かすときも、ほとんどは体のほうが無意識的に先に動いているだけです。それを後から「起き上がろうと思って起き上がった」と説明するのは、本当はおかしなことなのですが、言葉上はそう言わざるを得ない。そう考えると、意識というもの自体、もしかするとないのかもしれません。

過去の出来事を現在思い出すことも不思議な現象です。それは現在は「もうない」はずですから。世の中には記憶障害の方もいれば、多重人格の方もいる。私自身、脳出血を患って身体が不自由になったことで、人間はいかに脳に依存しているかを痛感させられました。

けれど同時に、これだけ脳にダメージを受けても、自分がものを考える力そのものは失われなかった。そのことから逆に、「脳の構造がすべてだとする医学や世間の見方も、所詮は嘘にすぎないのだ」ということもわかってきました。

心については、本当はまだ何もわかっていません。脳の構造がどうこうという物質の話ではなく、まったく次元の違う話なのです。そのことが最近腑に落ちたからこそ、以前よりもかえって物事を考えやすくなった面もあります。

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