道元の言葉に「自己を学ぶというは、自己を忘るるなり」というものがあります。これは、この私を忘れることが、すなわち真の「私」がわかる、ということです。
本当の自分は、「今」や「ここ」といった、時間的・場所的な存在ではありませんから、そもそもそれに対応する言葉というものがない。それはキリスト教でいう神に近いものだと思います。
こう言うと難しく聞こえますが、鈴木大拙は「悟りは平凡だ」と言っています。平凡というのは「ごく普通のこと」です。今、この世界の中で、この「私」だけが意識しているということ自体、とても不思議なことでしょう。悟りとは、それに気づくだけのことなのですよね。
心についての言葉は、いわば「みんな嘘」
言語を学ぶと、物事を概念的に考えてしまいますが、そこには真実がありません。
「机の上に眼鏡がある」と言葉で言われても、実際の状況を見ていなければ、具体的にどういう眼鏡や机なのかわからないはずですが、なんとなく理解した気になってしまう。逆に目の前にある独特の眼鏡を表す言葉は、ないでしょう?
言語による理解とは、そのような理解の仕方なのです。言葉と独立に物事があるという考えから目を覚ますことが必要です。
「赤い」という概念自体は赤くないでしょう。でも、赤を表しているような気がしてしまう。だからこそ小説が読めるわけで、「赤い服を着た女の人が来ました」と書いてあればわかった気になりますが、実際に書かれているのは文字だけです。
良い・悪いといった言葉も同じで、突き詰めれば定義することはできません。死や生も同様で、心臓が動いていることを「生きている」と勝手に決めてしまっているだけ。
心についての言葉というのは、みんな物的な理解に置き換えられた、いわば嘘なのです。


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