こういう考えなので、人が来ても話が合わないでしょう。こんなことを言えば、みんな嫌がるだけですからね。
オンラインで話すことが、私にとっては一番快適です。向こうが攻撃してくることがありませんから。どんなことがあっても、殴られることはない。言語だけのやりとりですからね。
「私」はこの体の中にいるという考えは、実は錯覚
さて、今回は「私」について話してみようと思います。
みなさんは「私」はこの体の中にいる、と思っているでしょう。それが、実は錯覚なのです。このことは、昔からいろいろな人が言っていることです。
道元や臨済は、「吾我(個我)を捨てろ」「吾我(個我)から離れろ」と言っています。臨済の言葉に「無位の真人」というものがあります。いずれも、本当の自分は、私の体の中にはいないと言っています。といって、どこかほかの場所にいるわけでもない。
昔はそういうことを読んでも何とも思わなかったのですが、この数年でじわじわとわかるようになってきました。とはいえ、やはり日常的には80年間生きてきたこの私を、「私」だと思ってしまいますがね。
それも「私」には違いないのですが、あくまで表面のこと。深層はまた違うのだ、という議論なのです。
「私」という言葉自体は、一般的なものです。あなたも「私」でしょう。この言葉を理解した人が「私」になるわけです。つまり、「私」というものは普遍を介しているのです。この身体とともに「私」はいずれ死にますが、その普遍的な「私」のほうは、死んだり生きたりするものではないのです。
カントの言う「超越論的統覚」も、これと似ています。「私」が世界に意味をつけているわけです。「月が昇った、日が沈んだ」というのも、「私」がそう言っているにすぎない。「私」と関係なく、向こうに世界があるかのような気がしてしまいますが、「私」がなければ、世界そのものがないのです。
ただ、なかなかそういう感じがしないだけです。


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