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ライフ #戦う哲学者の晩年の独白

死ぬのがあまり嫌ではなくなった"戦う哲学者"が、じわじわとわかるようになった「私はこの体の中にいる」という幻想

9分で読める
中島義道 戦う哲学者
筆者は最近、介護施設でのショートステイを経験。部屋にこもって過ごしたという(写真は2013年の取材時のもの。撮影:風間仁一郎)
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こういう考えなので、人が来ても話が合わないでしょう。こんなことを言えば、みんな嫌がるだけですからね。

オンラインで話すことが、私にとっては一番快適です。向こうが攻撃してくることがありませんから。どんなことがあっても、殴られることはない。言語だけのやりとりですからね。

「私」はこの体の中にいるという考えは、実は錯覚

さて、今回は「私」について話してみようと思います。

みなさんは「私」はこの体の中にいる、と思っているでしょう。それが、実は錯覚なのです。このことは、昔からいろいろな人が言っていることです。

道元や臨済は、「吾我(個我)を捨てろ」「吾我(個我)から離れろ」と言っています。臨済の言葉に「無位の真人」というものがあります。いずれも、本当の自分は、私の体の中にはいないと言っています。といって、どこかほかの場所にいるわけでもない。

昔はそういうことを読んでも何とも思わなかったのですが、この数年でじわじわとわかるようになってきました。とはいえ、やはり日常的には80年間生きてきたこの私を、「私」だと思ってしまいますがね。

それも「私」には違いないのですが、あくまで表面のこと。深層はまた違うのだ、という議論なのです。

「私」という言葉自体は、一般的なものです。あなたも「私」でしょう。この言葉を理解した人が「私」になるわけです。つまり、「私」というものは普遍を介しているのです。この身体とともに「私」はいずれ死にますが、その普遍的な「私」のほうは、死んだり生きたりするものではないのです。

カントの言う「超越論的統覚」も、これと似ています。「私」が世界に意味をつけているわけです。「月が昇った、日が沈んだ」というのも、「私」がそう言っているにすぎない。「私」と関係なく、向こうに世界があるかのような気がしてしまいますが、「私」がなければ、世界そのものがないのです。

ただ、なかなかそういう感じがしないだけです。

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