ただ、実際には積極的に動いたのは和のほうで、雅は資格制度の実現には、じっくり議論を重ねるべきだと考えていた。国家が都合よく看護婦を管理することにつながるのではという恐れも抱いていた雅。質の高い看護婦の育成と普及を目指して、ともにやってきた同志には違いなかったが、この点については、意見は合わないままだったようだ。
問題点が多かった『看護婦規則』
明治33年(1900)7月、東京府が看護婦の資格試験について定めた『看護婦規則』を公布することになった。東京府が全国に先駆けて実施したことで、各府県でも同様の看護婦規則が制定されることになる。
だが、看護婦規則の中身をよく見ると、見過ごせない問題点があった。
まずは、対象が「派出看護婦」に限定されていたことだ。病院に勤める「内勤看護婦」には適用されず、病院内であれば無資格のまま見習いとして働くことができた。
さらに、官立の大病院や日本赤十字社附属の養成所出身者は、試験なしで看護婦資格を得られるという抜け道があった点も、看護婦の質の向上につながるとは、言いがたいものだった。
また、試験の実施主体は、医療行政を担う内務省衛生局ではなく警視庁となった。その意図について『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(青山誠著、角川文庫)では、こう説明している。
「内務省が看護婦資格を衛生局ではなく警察機構の管理下に置いた意図は、取り締まりのやり易さを考えての措置だったといわれる。つまり、規則の制定は看護婦の質の向上よりも、違法業者や無資格者の摘発に主眼をおいたものだった」
これまで、現場の実情に即して丁寧に作り上げてきた会則や報酬体系もすべて、官僚たちに管理されることになる――。無資格の悪質業者を取り締まる法的根拠は確かに生まれたものの、雅の抱いた懸念が現実化したことも、また事実だった。


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