和はというと、この頃に大切な存在を失い、その悲しみに暮れていた。制定の1カ月前に、娘の心を20歳の若さで結核によって失っていたのだ。母の和を見て育ったからだろう。心もまた看護婦を目指していたという。娘の看病で休業していた和は、心を亡くしたあとも職場になかなか復帰できずにいた。
東京看護婦会の内部では不穏な空気
和ほど存在感のある人材が現場に現れなくなると、何らかの変化が生じるのが組織というもの。東京看護婦会の内部では、不穏な空気が流れるようになっていたらしい。コストを度外視した和の献身的な看護スタイルについていけないと感じていた人たちから、不満の声が上がり始めたのである。
会が「大関派」と「反大関派」に分かれて対立する中で、和はますます復帰の意欲を失っていく。明治34(1901)年、ついに東京看護婦会に辞表を提出。天職と信じてきた看護婦を辞める決断をする。43歳にして味わう、大きな挫折だった。
【参考文献】
青山誠著『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)
田中ひかる著『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中公文庫)
田中ひかる監修『大関和 明治のナイチンゲールたち』(平凡社)
櫻庭由紀子著『戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり』(内外出版社)


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