秀吉・秀長兄弟を東大寺や興福寺の僧侶らが大勢で迎えます。秀吉自らが大和入りしたのは、同国が豊臣政権の支配下に入ったことを示す意味合いがあったのでしょう。
大和に入った秀長がまずやったことは、大和国に混乱が起きることを未然に防ぐことでした。
秀長の家臣(奉行人や奉公人)が非法行為を行ったならば、連絡すれば、その者を処罰するとの内容の高札を在地に掲げたのです。
また人夫役の徴発も、秀長の直接命令でなければ従う必要はない、と触れられました。秀長の家臣が百姓の屋敷に強引に宿泊することも禁止されます。
家臣の非法行為が頻発すれば、それだけで領国は混乱します。その混乱を防ぐために、秀長は高札を掲げ家臣の非法行為を禁じたのです。
前述したように秀長の大和国統治の目標は、強力な宗教勢力が存在する同国を大名の統治下に編成することでした。
政治経済の中心を郡山に移そうとした
それまで大和国は奈良が政治・経済の中心になってきました。秀長は政治・経済の中心を郡山に移そうとします。そのための施策はすぐに打たれました。
同年10月、秀長は奈良での商売を禁止したのです。味噌や酒、柴木、海苔ほか一切の物の奈良での商売を禁じ、それらの商売を郡山で行うように仕向けたのでした。また奈良には奈良支配を担当する「南京奉行」(家臣の井上高清)が置かれます。
さらには、秀長は奈良に金銀などを貸し付ける「奈良借」を行いました。例えば天正17年(1589)10月、秀長は奈良町に1万石を貸し付けています。1万石は現代で言えば約10億円に相当するとされるので、かなり高額な貸し付けです。約1万石を貸し付けて、利子は翌春に金子(きんす)で受け取ることになります。
秀長は奈良町以外、例えば城下町の郡山町にも貸し付けを行っています。この時の利子は5貫文、50万円ほどだったようです。


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