これまで見てきたように、秀長の金銭貸し付けは利子の徴収を目的としたものであることは疑いありませんが、その一方で町人に公金を投下して、領国の反映を図ったと見ることもできます。
秀長が死去した時、郡山城には莫大な遺産が残されましたが、それは前述した施策の賜物だったのです。
郡山城の修築で民衆は迷惑被る
大和に入った秀長は、前述のように郡山城を本拠としますが、同城の修築を行なっています。根来寺の大門を郡山城の門とするために、大和国中の人夫が動員されることもありました(『多聞院日記』天正15年3月6日条)。
そのため「人民の大悩」(民衆の迷惑)になったと『多聞院日記』は記します。秀長の大和国支配には光と影があったのです。
(主要参考文献一覧)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社、2025年)
・柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』(NHK出版、2025年)
・和田裕弘『豊臣秀長「天下人の賢弟」の実像』(中央公論新社、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)


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