また、高田ふーみん氏が差別的・過激な発言をし、びーやま氏が制止する「ボケとツッコミ」の形式も免責にはならない。制止役がいることで番組側は均衡を取ったつもりかもしれないが、侮辱的な言葉はすでに発せられ、字幕や効果音で強調されている。むしろ「止める人もいる」という体裁が、番組全体としての批判を和らげながら、刺激の強い表現を流通させる仕組みとして機能しているともいえる。
見たくなければ見なければよいという主張もされているが、深刻なのは、視聴者に大学受験を控えた高校生や受験生が含まれることだ。同番組のおかげで受験を頑張れたという出演者も見かける。しかし、学ぶ目的や進路の多様性よりも、「どの大学なら他人を見下せるか」という序列意識を刷り込みかねない。
教育を掲げるチャンネルであるなら、必要なのは注意テロップの追加ではなく、企画そのものが誰の尊厳を犠牲にして成立してきたのかを考えることだ。相次いだ批判は、一つの失言への抗議ではない。大きな影響力を持つまでになった動画メディアが、笑いの名の下に差別を再生産してよいのかという問いなのである。
なぜ、ここまで支持を拡大したのか?
もっとも、wakatte.tvの主張に対する批判的見解を述べてきたが、同番組が支持される背景まで見なければ、問題の全体像は捉えられない。日本の新卒採用では、一部企業が応募者を大学名によって事実上ふるいにかける、いわゆる「学歴フィルター」の存在が長く指摘されてきた。説明会の予約や書類選考の段階で大学による扱いの差を感じる就活生は少なくない。高田ふーみん氏には、「偏差値の高い大学に入ることが人生の成功への道」という考えがあり、だからこそ受験生に頑張ってもらいたいという思いで番組を企画していると述べている。
こうした採用慣行を前提にすれば、難関大学への進学が、特定企業への応募機会、人脈、情報、初期キャリアの選択肢を広げる場合があるという現実を、誇張した形で語っている面もある。だからこそ、批判は出演者個人だけに向けて終わるべきではない。大量の応募を効率よく処理するため、大学名を本人の能力や将来性の簡便な代理指標として使う企業の側も、「高偏差値大学に入れなければ人生は不利になる」という不安と序列意識を再生産している。
厚生労働省は、公正な採用選考の基本として、応募者に広く門戸を開き、本人の適性・能力に基づいて判断するよう求めている。企業には、大学名だけで早期に排除するのではなく、職務に関係する知識、経験、意欲、成長可能性を透明な基準で見る姿勢が問われる。wakatte.tvは企業社会にある選別を娯楽として増幅している部分がある。その構造まで変えなければ、同種のコンテンツを批判するだけで学歴偏重はなくならない。


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