宮沢賢治は1933年(昭和8年)9月21日、37歳の若さで亡くなった。現存する最後の手紙は、かつての教え子に宛てたもので、死の10日前に書かれた。
今では宮沢賢治といえば、子どもから大人まで知らない者はない有名な作家で、『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などの代表作は、ちゃんと読んだことはなくても、タイトルやおおよその内容は知っている人が多いだろう。
しかし、生前はほとんど無名だった。生前に刊行された本は2冊だけで、詩集『春と修羅』は自費出版、童話集『注文の多い料理店』は学校の後輩が出してくれたものだ。原稿料をもらえたのは人生で一度だけで、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪渡り』で得た5円のみだったそうだ。
だから、別に仕事をもっていた。農学校の教師をし、農民の生活向上のために肥料の使い方や技術の指導もした。さらに晩年は(といっても30代半ばだが)、「東北砕石工場」の技師兼セールスマンとして働き、肥料や建築用石材の営業で岩手や東京を奔走していた。
しかし、身体をこわし、35歳になったばかりのときから病臥生活となる。『雨ニモマケズ』はこのときに書かれた。
「現在の生活をば味ふ」
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