鈴木雅は明治24(1891)年2月に帝大附属病院を退職。大関和が病院を辞職してからわずか3カ月後のことだったが、退職の経緯は大きく異なる。
和の場合は、その仕事熱心さを周囲の誰もが認めるところだったが、クリスチャンとしての信仰活動が職場にも及んだことが、問題視される。また、看護婦取締として和が、看護婦を指導することに、医師が反発。和も負けじと、外科監督の佐藤三吉教授に宛てて「看護婦の待遇改善に関する建議書」を提出して物議を醸すことになる。
すったもんだの末、看護婦取締を解任された和は、自ら辞職願を出すことになる。
病院を退職後、和は桜井女学校の設立に関わった宣教師 マリア・ツルーのあっせんによって、新潟にある高田女学校の生徒取締の職に就くことになる。
一方の雅はといえば、看護婦を雑用係のように扱う病院側に思うところはあったものの、和のように直談判するタイプではなかった。表向きは何の不満もないような顔で、内科看病婦取締として、そつなく働いていたようだ。「医師と対立しても仕方ない」と考えていたのかもしれない。雅には、そういうクールで合理的なところがあった。
合理的な鈴木雅が直面した不慮の事故
そんな雅が病院を退職したのは、マリア・ツルーから「アメリカの大学で最新の看護学を学んでみないか」と声をかけられたからだ。大きな夢に挑戦すべくあくまでも前向きな退職だった点でも、和とはちょっと事情が異なっていた。
しかし、雅のような用意周到なタイプでさえも、先が読めないのが人生である。アメリカへの出発直前に、横浜市街で人力車と衝突。負傷してしまい、留学は断念。横浜市中の病院に入院することになってしまった。
不慮の事故によって、アメリカ留学が取りやめになったことは、雅をどれだけ失望させたことだろうか。すでに病院を退職していることを考えても、言葉にしがたい悔しさがあったことだろう。


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