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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「絶対に秀吉に降伏したくない!」怒り心頭だった《長宗我部元親》を心変わりさせた「重臣からの助言」

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長宗我部元親初陣像(写真: neconoco / PIXTA)

INDEX

天正13年(1585)、四国制覇を成し遂げた土佐国の長宗我部元親と天下統一を目指す羽柴秀吉が激突することになります。

秀吉は当初、戦わずして元親を屈服させようとしました。「伊予国と讃岐国を返上せよ。そうすれば土佐国と阿波国は安堵しよう」と元親に提起したのです。元親としては努力して切り取ってきた領土を返上しなければならないことに強い憤りを抱いたことでしょう。

とは言え、長宗我部方も四国統一における戦いで疲弊していたのは事実。強大な秀吉軍と戦うとなれば損失も大きい。そこで元親は伊予国の返上を持ちかけますが、秀吉はそれを却下します。

こうして交渉は決裂し、戦端が開かれるのでした。秀吉は自ら総大将として「四国征伐」を行うつもりでした。ところが病気になってしまいます。

総大将として派遣された秀長

そこで総大将として派遣されることになったのが弟の秀長です。『天正記』(秀吉に御伽衆として仕えた大村由己が著した秀吉の伝記・軍記)には秀長は四国攻めに際し、毛利や宇喜多を合わせて「8万余騎」の軍勢を率いたとあります。

秀長率いる大和・紀伊・和泉国の軍勢は淡路島の洲本に渡りました。その後、総大将の秀長は淡路の福良から鳴門(徳島県)を渡り、土佐泊(徳島県鳴門市)に上陸します。

副将の羽柴秀次(秀吉の甥)の摂津・丹波国の軍勢は播磨国の明石から岩屋(淡路島)に着岸。備前・美作国の宇喜多秀家の軍勢は、蜂須賀小六や黒田官兵衛と共に讃岐国の屋島に上陸。敵城5、6カ所を攻略した上で牟礼高松(むれたかまつ)に陣を取ります。

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