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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

「絶対に秀吉に降伏したくない!」怒り心頭だった《長宗我部元親》を心変わりさせた「重臣からの助言」

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長宗我部元親初陣像(写真: neconoco / PIXTA)
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秀吉は7月3日に出陣する予定でしたが、秀長の意向を汲んで、出陣を延期します(しかし結局、秀吉が出陣することはありませんでした)。

秀吉は秀長に助言(木津城を大軍でもって攻囲するよりも、一宮城も攻めたほうがよい)しつつも、秀長の「外聞」を考えて、出陣を見合わせたのです。

秀長は一宮城(徳島県徳島市)の水の手も断って、これを攻略することになります。同城を守るのは重臣・谷忠澄でしたが、忠澄は主君・元親が拠る白地城(徳島県三好市)に合流すると、元親に秀吉への降伏を勧めました。

立腹した元親だったが

これに大いに立腹したのが元親です。西国において弓矢取りの名を得た元親が「一合戦」もせず降参するのは「恥辱」だと言うのです(『元親記』)。

元親は忠澄に対し「それほどの未練者とは思わず城を預けたことは無念。すぐに一宮に帰り、腹を切れ」と怒りをぶつけます。忠澄は面目を失ったと『元親記』にありますが、同書には剛の者であり、知恵ある者と評されています。元親に罵倒されても忠澄は一宮に帰らず、同夜に重臣らのもとに赴き、終夜談合したのでした。

ほかの重臣らも「元親の怒りはもっともだ」としながらも、本国の土佐まで攻め込まれてから降伏するよりは、今のうちに降伏したほうがいい」との意見。徹底抗戦を唱えていた元親も結局は重臣の意見に従うことになります。

こうして8月上旬に講和が成立。元親は土佐一国を任されます。秀長の活躍により「四国征伐」は完了するのでした。元親が徹底抗戦していたら、おそらく敗北の後で切腹を命じられ、御家は滅亡していたでしょう。

(主要参考文献一覧)
・小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(吉川弘文館、2006)。
・和田裕弘『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』(中央公論新社、2025)。

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