BMFは、ダムの近隣コミュニティが停電しているといった悲惨な状況を受けて「#MicroNotMega (メガダムではなく、小規模水力発電を)」というキャンペーンを打ち立てた。大規模な電力生産ではなく、川の一部を小さく迂回させるだけの小規模水力発電設備を村に設置し、その電力をコミュニティが生活のために使う。
しかし、世界中で高まる電力需要に供給が追いついておらず、どこかから大量に調達してくる必要があるのもまた現実だ。
気候危機時代の電力確保に問われる構造
アメリカの政治専門メディア「ポリティコ」欧州版は26年6月、エアコンなしで気温40度超の熱波にさらされたヨーロッパでは計1万4000人以上が死亡したと報じた。「グローバル・サウス」の国や地域だけでなく、「グローバル・ノース」においても気候変動の脅威が改めて認識される事例となった。ところが、世界のAIブームは止まらない。
このままでは電力を作り出すために地球を壊し、また壊れゆく地球に暮らすためにさらなる電力が消費されていく、という負のスパイラルまっしぐらだ。では莫大な量の電力を、いかにして持続可能な形で調達するのか。
再生可能エネルギーへの転換は、気候危機への現実的な答えだ。また脱炭素の文脈だけでなく、原子力発電の脅威を体験した日本のような国にとって水力のように安定した再生可能エネルギーは、計り知れない可能性を持つだろう。問題は、そのプロセスだ。コミュニティのニーズを損なわず、電力需要をどう満たすのかーー。
AIは今、スマートフォンから家電、製造業まで、あらゆるサプライチェーンに組み込まれつつある。しかし、これは消費者が自ら選んだものだろうか。それとも現代病である、「必要は発明の母」ならぬ「発明は必要の母」の1つに過ぎないのか。これだけの電力が本当に必要なのか、需要そのものを問い直してみる価値はある。
森が与える分の恵みだけを受け取り、余剰による儲けのために自然を削ることはしない。そうした暮らしの理は、ダヤックの人々にとっては当然のものだった。
太平洋戦争中に陸軍として北ボルネオに派兵された堺誠一郎は、著書「キナバルの民」(中公文庫、1977年)にこんな場面を記録している。先住民に「なぜもっと米や野菜を作らないのか」と尋ねた際のこんなエピソードがある。
必要な分で満ち足りる暮らしを、近代的な感性は「入れかえるべき脳味噌」と見なした。だがその進歩の果てに、私たちは地球を壊すほどの電力を欲する時代に立っている。一体、どちらが「椰子頭」だったのか。
先住民の自己決定権が法的に保障されない限り、彼らの土地に正義は訪れない。収益共有も、小規模水力も、コミュニティが試みる解決策のひとつだが、「最も差別的な法域」とされる構造が変わらなければ、どんな善意の枠組みも与える側の裁量に左右されてしまう。マイケル・ジョック氏はこう語った。
「私たちは何世代もかけて、この森と川を守ってきた。開発するかどうかを決める権利は、私たちにあります。それだけの話なのです」(ジョック氏)
サラワクをめぐる構造の末端にいる我々日本の消費者には、何ができるのか。「安くて豊富」の裏に、誰かの沈んだ故郷があると知ること。「その開発は誰のためのものだったのか」と問い続けること。できるのは、それだけかもしれない。それでも、その問いから目を逸らす先にあるのは、80年間変わらない構造の、今一度の追認にほかならない。


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