有料会員登録 東洋経済オンラインとは
キャリア・教育

トヨタ奥田氏とコマツ坂根氏 名経営者を生んだ「左遷」と「海外行脚」、ジョブ型雇用では育たないゼネラリストの圧倒的価値

9分で読める
奥田碩と坂根正弘
トヨタ自動車・元社長の奥田碩氏(左)とコマツ・元社長の坂根正弘氏(左写真撮影:梅谷秀司、右写真撮影:尾形文繁)
2/4 PAGES
3/4 PAGES

ちなみに7歳下の弟・務氏は後に大丸の社長・会長、J.フロント リテイリングの経営トップを務めており、兄弟そろって日本を代表する企業の頂点に立ったことになる。

兄の碩氏は豪放磊落、弟の務氏はソフトで洗練された印象と、一見すると対照的な2人。しかし、どちらも人懐っこさと人間味にあふれ、多くの人をひきつける魅力を持っていた。

碩氏は一橋大学商学部を卒業し、55年トヨタ自動車販売に入社、経理部門に配属された。生真面目な社員が多い部署にいたことから倦怠感を覚えるようになり、歯に衣着せぬ物言いも重なって、上司との摩擦も少なくなかった。

配属から17年目の72年秋、自ら希望して40歳でフィリピン・マニラへ赴任する。そのオフィスには、奥田氏以外に日本人技術者が2人しかいなかった。そのため、左遷と受け止められることもあったが、マニラでの6年半は奥田氏にとって、むしろ経営者としての実地訓練の期間だった。

奥田氏の人生を変えたマニラでの出会い

奥田氏に任されたのは、「経理アドバイザー」という肩書のもと、フィリピンでトヨタ車の組み立て・販売を独占していたデルタ・モーターのリカルド・C・シルベリオ社長への対応だった。同社からトヨタへの延滞金を取り立てるという難題である。

当時のフェルディナンド・マルコス大統領らとの人脈を築きながら奥田氏は交渉を重ね、未納金の回収に成功した。経理畑を歩んできた奥田氏は、数字の背後にいる人間を動かさなければ物事は前に進まないという「実学」を学んだ。

こうした経験が、後に奥田氏の人事を大きく変えることになる。

後にトヨタの社長・会長を務めた豊田章一郎氏は、長女の厚子氏の夫で大蔵省からアジア開発銀行に出向していた藤本進氏がマニラに駐在していたため、娘と孫を訪ねてたびたび現地を訪れていた。そこで、奥田氏の仕事ぶりを目の当たりにし、現地で築いた人脈の広さに驚いた。

本社では「扱いにくい社員」とされていた奥田氏だったが、場所が変われば、それが強みとして生きると、章一郎氏は確信した。創業家の当主が、組織の本流から外れていた1人の社員の運命を変えたのだった。このような鶴の一声人事は、ファミリービジネスであるがゆえに使えた「秘密兵器」といえよう。

奥田氏は79年に帰国して豪亜部長となり、82年のトヨタ工販合併で取締役に就任。日米貿易摩擦を受けたアメリカ単独進出では、北米事業準備室で工場用地の選定に携わる。この仕事の成果が、後にトヨタ北米生産の主力拠点となるケンタッキー工場の建設につながる。

4/4 PAGES

こちらの記事もおすすめ

あなたにおすすめ

キャリア・教育

人気記事 HOT

※過去1ヶ月以内に配信した記事の閲覧数