そして、常務、専務、副社長を経て、95年8月、病に倒れた豊田達郎氏の後を継いで社長に就任した。豊田家出身者以外の社長就任は28年ぶりだった。
トヨタの社長となった奥田氏は、社内の改革だけにとどまらず、財界活動にも力を注ぐ。日本経営者団体連盟(日経連)会長として財界団体の再編を主導し、2002年に日経連と日本経済団体連合会(経団連)を統合。請われて新・経団連の初代会長に就いた。
小泉政権の構造改革を経済財政諮問会議の民間議員として後押しし、「骨太の方針」策定にも関わる。04年の製造業派遣解禁では雇用の柔軟化を進め、「外国人労働者の受け入れ」という当時は政治的に扱いが難しかった問題にも踏み込んだ。これら一連の急進的な改革については、今も評価が分かれるが、当時としては異例の改革姿勢だった。
勝手のわからない仕事が経営力を高めた
一方、坂根氏は、奥田氏とは対照的に、技術者としてキャリアをスタートさせた。1941年広島市生まれ。45年、原爆投下のわずか2カ月前に島根県浜田市へ疎開し、その後は同地で育った。大阪市立大学工学部を卒業し、63年小松製作所(現コマツ)に入社。技術者としてブルドーザーなどの設計に携わる。
「技術の天才」だったわけではない。本人の回想によれば、仕事には苦労し、顧客からのクレームを通じて、自分が手がけた機械が現場のニーズに合っていないことを痛感した。図面の上では正しくても、現場では使いにくい場合があり、故障すれば顧客の仕事を中断させてしまう。坂根氏が身につけたのは、現場でコマツの製品を使っている顧客の視点から、技術をいかに生かすかという思考・発想だった。
81年、坂根氏はアメリカに赴任し、サービス部門を担当した。90年には、経営不振に陥っていた日米合弁会社・小松ドレッサーカンパニー(現コマツアメリカ)の立て直しを託された。そこで、再び渡米。現地法人の社長に就任し、再建に取り組んだ。一技術者だった坂根氏が海外現地法人のトップを任されたこの経験は、部門の壁を越えて経営全体を見る視点を養う転機となった。
奥田氏がマニラでの交渉に明け暮れたように、坂根氏も設計、サービス、アメリカでの経営という一連の異動の中で、自分の狭い専門にとどまらず、幅広い領域で多様な経験を重ねた。経営企画部門で全社戦略を練ってから経営者になるキャリアとは異なり、勝手のわからない仕事に向き合わざるをえなかった経験こそが、2人の経営力を高めたと考えられる。
坂根氏も退任後、コマツの枠を超えた役割を担った。経団連副会長や産業競争力会議民間議員を歴任する。2014年には経済産業省の総合資源エネルギー調査会会長に就任している。
11年の東日本大震災後の原発事故を受けて、見直しが迫られていたエネルギー基本計画の策定という難題に取り組んだ。18年には産業革新投資機構の取締役会議長に就いた。品質管理にも大きな貢献をし、08年にはデミング賞本賞を個人として受賞している。
(後編に続く)


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