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秀長が長生きすれば天下は安泰だった?《豊臣政権》が永続できなかった"本質的な問題"

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豊臣秀吉像(写真: かみゆ / PIXTA)
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真山:現代にも通じるような話ですね。すごいと言われたくて頑張ること自体は悪いわけではありませんが、SNSに張りついて承認欲求をこじらせたり、「すごい」と言ってくれる人ばかりと付き合ったり。

伊東:ベンチャー企業の経営者が成功し、専制君主と化していき、気づけば周りがイエスマンだらけというのもよくある話です。自分を否定する人と一緒にいるのは心地悪いので、自然にそうなってしまうのです。気持ちはわかりますが、秀吉はその典型例ですね。

家康が偉かったのは、酒井忠次のような口うるさい人間をあえて側近に置き続けたことです。唯我独尊の信長と阿諛追従する人を好む秀吉の失敗を、家康は徹底的に反面教師にしています。

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伊東:秀吉には後継者の選択肢が少なかったという話に戻ると、実は秀吉は天下政権を永続させることを諦めていたのではないかという点に突き当たります。

当時から「天下は持ち回り」という考え方が定着しており、ある程度の期間、天下の静謐が保てれば、それで豊臣政権の役割は終わりと考えていた気がします。そうでなければ外様大名たちを政権の中枢に引き入れませんよ。

それは別として、秀頼に対する愛情と自分の血脈を伝えていきたいという思いは強かったと思います。そのために、公家としての豊臣家という存続方法も選択肢の一つでした。その証拠に、北政所が大坂城の二の丸を出たあとに入ったのが京都御所に隣接している「京都新城」です。

これは近年、城郭考古学者の千田嘉博先生の研究で注目されていますが、豊臣家を公家として存続させ、天下政権は諦める代わりに家名を残すというプランが、秀吉にはあったのではないかと私は見ています。御所を焼いてしまうと朝廷の信任を得られませんから、家康はおいそれと攻められません。要は、「出ろ」「出ない」と言って時間を稼いでいるうちに、家康の方がタイムアップとなりますからね。

真山:御所を人質にしようとしていたわけですか。そこまで考えていたとしたらすごいですね。

伊東:結果的には、淀殿が天下政権としての豊臣家の維持に固執するので、大坂の陣前に京都新城に入ることはありませんでしたが、この城こそ、秀吉か北政所の最後の切り札として持っていた可能性はあると思います。

真山:秀吉は何を無念に思ったのか……。その人物が何を目標にしていたかによって、敗北の意味合いも変わるわけですね。

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