でも、この落とし穴に入り込むと結局は残念な人になってしまうと思うんですね。本来、教養はアリストテレスが言うところの「エウダイモニア=良き生」のためにあるはずなのに、それがシニシズムと結びついて、むしろその人の人生を悪い方向に引っ張ってしまうことがある。
僕が電通にいた頃のエピソードですが、同じ局の先輩が大型のプロジェクトを受注してきた。その先輩と同世代の上司に「○○さんって優秀ですよね」と差し向けたら、「でも、アイツは教養ないからね。キルケゴールも知らないんだぜ」と、吐き捨てるように返してきたことがあります。
楠木:状況が想像できますね。
山口:その人は典型的な「仕事はいまひとつなんだけど、やたらと知識だけはある」という人で、周囲に「その話は全然新しくないよ」とか「アフォーダンス理論によれば」といった具合に、常に上から目線で「教養マウント」を取りたがる人でした。
僕は以前から「残念な人だな」と思っていたので、そのコメントに対して「『キルケゴールは知っているけど仕事はイマイチ』っていうのもどうかと思いますけどねえ」と言ったら、めちゃくちゃ怒られました。
ただの「知識」と応用可能な「知恵」は異なる
楠木:昔と比べると「仕事ができるふり」をしにくくなっているんだと思います。昔は、会社に遅くまでいるとか、仕事ができなくても「できるふり」をする手がいくつかありましたが、今はそういうことが通用しにくくなっている。代替的な手口として教養が使われているのかもしれませんね。ただし、キルケゴールを知っているかどうかは「知識」で、「教養」ではありません。
山口:インプットとストレージということでいうと「知識」と「知恵」の区分が大事なのかもしれません。その残念な先輩はいっぱい「知識」は持っていたけど、その知識は自分の仕事や生活の文脈に応じて利用できるような「知恵」にはなっていなかった。インプットされる時点で、情報は基本的に「知識」なわけですけど、でも楠木先生が最重要ノートに書かれているのは、「知識」ではなく「知恵」なのだと思います。


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