また侵攻部隊には約150人の石油技師が同行していた。接収した油田では直ちに復旧作業が始まり、ミリは日本軍の南方作戦を支える重要な石油供給拠点となっていった。
ミリの港で抗議していたアクティビストたち
先住民族ダヤックの文化と言語を守るNGO「SADIA」事務局長のニコラス・ムジャ氏は90年代後半、サラワク北部のミリで石油会社に勤めていた。
ある日、6人の白人女性に道案内をしたことで警察に拘束され、1日半の尋問を受ける。のちに報道で、彼女たちがグリーンピースのアクティビストだったこと、そして日本企業の木材伐採に抗議するために、タグボート(木材を運ぶための曳船)に自らを鎖でつなぐ抗議活動をしていたことを知る。
「あとから知って、驚きました。ペナン地域からの日本への木材輸出を止めようとしていたのですね。森林で生まれ育った人間として、自分も何かしなければと思いました」(ムジャ氏)
半世紀前に日本軍が最初に上陸し、接収した場所で今度は日本向けの木材輸出に抗議する人々が声を上げていたのだ。石油から木材へと変わっても、日本がサラワクから資源を運び出す構図は変わっていなかった。
これが転換点となり、ムジャ氏は石油会社を辞め、環境保護と先住民の権利擁護に身を投じるようになった。この90年代の木材問題は偶発的なものではなく、背景には戦後から続く日本企業とサラワクの資源をめぐる関与があった。
環境NGO「サラワク・キャンペーン委員会」によると、日本は1960〜70年代にはフィリピン、次いでインドネシア、そして1970〜90年代にはマレーシアのサバ州、続いてサラワク州から大量の熱帯材丸太を輸入し、地域の熱帯材の枯渇を招いてきた。とりわけ85年のプラザ合意以降の急激な円高は木材輸入全体を押し上げた。
その主要な供給地のひとつがサラワクだった。高度経済成長期の日本の建設需要を支えたのは、サラワクの森だったのだ。


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