辻岡氏は、葉山氏の妻が塾員だったことも決定に強く働いたのではないかと振り返っている。〈だって葉山さん、慶應義塾ではないと離婚されそうだったよ〉(『未来を創る大学』)という冗談はさておき、当時、辻岡氏が他大学関係者から嫌味を言われたのは仕方のないことだったろう。
“外れ者”を起用した検討委員会
86年7月に新学部検討委員会が発足する。メンバーは各学部長に「保守的ではない適任者」を2名推薦してもらい、最終的に22名が集められた。
当初、委員の多くは理事会がすでに成案を用意しているのではないかと考えていた。しかし1回目の会合の際に、石川氏は〈正直言うと白紙〉と答えたそうだ。「学際的な新学部を2学部つくる」という大枠はあったものの、あとは全て委員会に任せる姿勢だったという。〈……多くの委員が述懐するように、この石川の姿勢は「見事」だった。〉(『未来を創る大学』)。
完全に任されていると理解した委員会の議論は、研究や教育のあり方から慶應の長所・短所に至るまで本音が飛び交い、白熱したという。検討委員会が解散した翌年87年4月までに公式会合が10回、休日返上の非公式会合も数多く開かれた。
〈この熱い議論を最初に先導したのは、「二一世紀の大学のコンセプト」をテーマに語り出した……〉文学部の井関利明氏であり、後に新学部設立の総合プロデューサー的役割を担ったのは経済学部の高橋潤二郎氏だった(『未来を創る大学』)。
2020年の『朝日新聞EduA』のSFC特集には、〈SFCは石川忠雄塾長(当時)の発意を受けて、高橋潤二郎(経済学部)、井関利明(文学部)、加藤寛(経済学部)の3氏がつくったというのが定説である。〉とある。(慶應SFC編⑤開設メンバーが語る「激しかった議論と今のSFCへの思い」/2020年7月10日。以下、〈〉で出典明記のないものは、この記事の引用)
実は井関氏、高橋氏ともに学部長から推薦されたメンバーではなかった。また、開設当初に総合政策学部長を務めた加藤氏は、検討委員会には入っていなかった。


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