西野氏は遠藤の地主たちに、大学誘致に伴う土地買収の相談を進めるが、大学名は出せないためどうにも説得力に欠ける。買収がうまくいかなければ慶應に逃げられてしまうと西野氏は気が気ではなかったようだ。
85年になると慶應の関係者の遠藤視察が相次いだため、これ以上は隠せないだろうと、西野氏は非公式な場で、口外しない約束で「慶應」の名前を初めて口にした。
〈……地主たちの反応は「まさか」という疑念の声だった。……ある地主は立派な大学過ぎて孫を入学させるのは無理だろうが、大学病院なら病気になったときに入れてもらえるだろう、と冗談を飛ばした。〉(『未来を創る大学』)
ここから地主たちも協力姿勢に変わっていく。そうして、翌86年1月10日、石川氏が福澤諭吉先生誕生記念会で新学部構想を公にした日の『朝日新聞』の夕刊に〈慶応大、藤沢に進出か 新学部設置へ用地交渉〉と報じられる。
他大学の恨みを買った(!?)遠藤進出
慶應の遠藤進出が公となった際に、施設担当常任理事だった辻岡氏は、他大学の関係者からずいぶん嫌味を言われたそうだ。
というのも、実は文教、東海、立教、東京女子医科、神奈川歯科、北里といった大学も、遠藤進出を藤沢市に打診していたのだ。しかし、葉山氏は農業振興という理由で全てそれを断った。
当時は大学が新学部開設などをする際には郊外にキャンパスをつくるしかない事情があった。まず56年に制定された「大学設置基準」で学生一人当たりの校地面積の基準が定められ、59年に市街地における工場や大学などの新設・増設を制限する「工場等制限法」が首都圏に制定された。これが70年代以降に相次いで大学が郊外キャンパスを開いた理由で、80年代に入るとキャンパスの適地自体が少なくなっていた。
慶應も遠藤以外に、さまざまな場所を検討している。しかし〈……湘南方面以外は「どうもピンとこない。慶應義塾のイメージに合わない」という声はいつもあったようだ。……湘南は石原慎太郎の太陽族のイメージと重なり、実業家の富裕層が好む慶應義塾のもう一つの横顔にぴたりと一致していた……〉(『未来を創る大学』)。
言わんとすることはわからないではないが、こういうところが慶應がしばしばやっかみを受ける理由だなと思う。いずれにせよ、葉山氏に断られた数々の大学の、慶應の遠藤進出を知ったときの悔しさはいかばかりか。


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