問題発見・解決を志向する学際的な学部、AO入試、シラバス(講義要項)、セメスター制(2学期制)など、現在は多くの大学で一般的なものだが、それらを先駆的に取り入れたのはSFCだった。多くの大学が視察に訪れ、その後の大学改革のモデルになったと言われている。
当時の取り組みで最も斬新だったのは、キャンパスをネットワーク化したことだ。CNS(Campus Network System)が張り巡らされ、数百台のUNIXワークステーションを配備。全教職員・学生に電子メールアドレスを付与した。この環境構築を担ったメンバーの一人が、「日本のインターネットの父」と呼ばれる村井純氏だ。村井氏は開設当初から30年間にわたり、SFCで教鞭をとった。
当時はインターネットという言葉すら、ほぼ誰も知らなかった。連絡手段といえば電話とファックスが中心で、『ポケベルが鳴らなくて』というドラマの主題歌が大ヒットしたのは93年だ。パソコンを個人で所有しているのは一部の愛好家に限られ、80年代後半に低価格化したワープロが急速に家庭に普及していた。
そんな時代に大学生がUNIXワークステーションでレポートを作成したり、教員や友人とメールでやりとりをしていた。その上、SFCは「24時間キャンパス」だ。キャンパスで夜を過ごすことを「夜間残留」と呼び、深夜も学生が校内でレポート作成やグループワークの準備をしているのが日常だった。
堆肥の匂いがする農村地帯のイメージとは裏腹に、SFCがいかに先進的な教育を行っていたかがわかるだろう。
新学部を設立しても内部進学者率はキープ
80年代半ばに慶應に新学部をつくる構想を打ち立てたのは、当時の塾長・石川忠雄氏だ。石川氏は4期16年もの間、塾長を務めた人物である。
新学部について石川氏が初めて公開の場で話したのは、86年1月の福澤諭吉先生誕生記念会の席上だ。石川氏の著書『私の夢私の軌跡』に収録された当日の所感によれば、慶應の将来の発展のため、複雑かつ流動的で不透明な時代に対応する新学部の設置が必要だと話し、地名は伏せたものの校地取得の目処がついていることも伝えている。


※ログイン後、コメント入力が可能です。