一方、ミナミにも新しい動きはあった。「アメリカ村」の誕生だ。ウエストコースト・カルチャーに影響を受けた若者が、家賃の安い倉庫街にブティックや古着屋、喫茶店などをオープンさせたのが始まり。同時に、梅田やアメリカ村の存在は、道頓堀に「古臭い」という印象を与えてしまうことになる。
それでも、道頓堀は大人の歓楽街として生きながらえた。五座のうち、朝日座と浪花座は映画館、角座は演芸、中座は歌舞伎や新喜劇といった演劇場、弁天座は2代目朝日座として文楽の劇場となる。中座や角座の向かいには、芝居の切符の手配や飲食の提供で見物客をもてなす芝居茶屋も残されていた。
これらが一転するのは、昭和末期のバブル期だ。時代に浮かれた人々は、常に新しいものを追い求める。演芸や演劇などは「古臭いコンテンツ」だとみなされ、ビデオの普及で映画も斜陽化する。
「怖い街」からの起死回生で、道頓堀にプールをつくる計画も
この頃の大阪の若者たちがどこで遊んでいたかというと、開発がますます進んだ梅田や道路整備のおかげで渋滞が緩和された郊外だ。ミナミであれば、アメリカ村か「ヨーロッパ通り」とも呼ばれた周防町、オシャレな店の多い鰻谷。バブル期に日本中を席巻したディスコ「マハラジャ」の1号店はミナミにあり、道頓堀筋の対岸の宗右衛門町に位置していた。
こうなると、道頓堀は太刀打ちできなくなる。道頓堀の中心だった五座は前述のとおり、1984年から2007年にかけてすべて閉館に追い込まれたのである。


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