道頓堀はもともと、1612年に成安道頓が開削を始め、1615年に完成した運河である。
その後、船場にあった芝居小屋が移築され、明治以降は浪花座、中座、角座、朝日座、弁天座の「道頓堀五座」が格式を誇った。近世から昭和にかけ、道頓堀は歌舞伎や浄瑠璃、軽演劇が上演される「芝居の街」として大阪屈指のにぎわいを見せていたのだ。
だが、昭和の終わりごろから平成にかけて、 道頓堀五座は次々に閉館する。唯一残っていた劇場の大阪松竹座が閉館することは、単なる施設の終焉ではない。それは事実上、「大阪固有の文化空間」が完全に消滅したことを意味するのだ。
1970年の大阪万博から始まった「ミナミの衰退」
では、道頓堀はどう変化したのか。
現在の道頓堀は、外国人観光客に好まれる大阪の中でもトップクラスのインバウンドの街へと変貌している。だが、「芝居の街」を終焉に追いやったのはインバウンドではない。繁華街としての衰退の波は、実は昭和の時代から少しずつ押し寄せていたのだ。
大阪の繁華街・歓楽街は大きく2つに分けられ、梅田周辺のエリアを「キタ」、難波や千日前、道頓堀界隈を中心とするエリアを「ミナミ」と呼ぶ。
道頓堀を含むミナミが大きな痛手を被った契機が、1970年の大阪万博だ。 万博が終わると大阪の街は、祭りのあとの寂寥を味わうこととなる。
万博の会場となった大阪府北部の北摂地域(千里丘陵)では、万博前からニュータウン開発が進んでいた。北摂地域へのアクセスは、阪急電鉄か国鉄(当時)。大阪市内で働きニュータウンへ帰る人々の憩いの場は、梅田駅(現・大阪梅田駅)と大阪駅を中心とする「キタ」へと移っていった。その影響を受けて進められた梅田周辺の開発は、街に新しい息吹をもたらした。


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