明治24(1891)年5月11日にも、高田の教会で廃娼運動の講演会が開催された。オルガンを弾いていた和は、一人の男性と出会う。信州松本で社会運動家として活動する、弁士の木下尚江である。
木下尚江は明治2(1869)年、信濃国松本城下(現・長野県松本市)に生まれた。松本藩に代々仕えた下級武士の家柄で、幼少期は病弱だったらしい。5歳のときには重い熱病で生死をさまよったという。
開智学校で啓蒙主義的な教育を受け、8歳の頃には祖母に連れられて自由民権運動の演説会に足を運んでいる。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』に感銘を受けると、長野県中学校松本支校在学中には、王政を打ち倒してイギリスに共和政をもたらした革命家オリバー・クロムウェルの存在を知る。それ以降、理不尽な権力に立ち向かう生き方に強く惹かれていったようだ。
明治21(1888)年、東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業すると郷里に戻り、新聞記者として筆を振るいながら、廃娼運動や禁酒運動といった社会運動に身を投じていく。
大関和に夢中になった木下尚江
大関和と出会ったのは、そんなときだった。演説が巧みだった尚江が登壇して弁舌をふるっていると、洋服を着こなしてオルガンを弾く和に目を奪われたという。
「公娼制度は女性の人権を侵害するものだ」という思いを共有した2人は意気投合。以後、文通を重ねる仲になった。当時、23歳だった尚江にとって、和は10歳年上だったが、その年の差もまた魅力的だったらしい。和のことを友人にこんなふうに語っている。
「人形のような小娘はつまらないが、中年の女はその熟した智慧が面白い」
明治30(1897)年、普通選挙運動に携わっていた尚江は、恐喝詐欺の疑いで起訴され、翌年には重禁錮8カ月・罰金10円の判決を受ける。和は収監された尚江のもとへ、綿入れを縫い、週に一度、食べ物や衣類を10カ月にわたって届け続けたという。
二人はいよいよ結婚へと歩み出すかに見えたが、そこに待ったをかけたのは、意外な人物だった。和が帝大附属病院の看護婦だった頃に、担当した患者の相馬愛蔵だ。


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