最近、美術館で広がっている「対話型鑑賞」の新しい取り組みが、話題になっています。
視覚障害のある人と見える人が数人で組み、一枚の絵の前で言葉を交わしながら鑑賞する「ソーシャルビュー」と呼ばれる鑑賞会です。全盲の写真家・白鳥建二さんの活動などをきっかけに知られるようになりました。
たとえば、見える側が説明役になって「青が塗られています」と言うと、視覚障害のある方から「どんな青ですか?」と返ってきます。
早速、ここで困ります。空の青でも、海の青でもない……。言葉に詰まります。
「ええと……夕方の、少し濁った……プールの底みたいな青かな」
口ごもるあいだに、自分が「青」という色を、まるで表現できないことに愕然とします。
さらに、見える人同士の説明が食い違い始めます。
「この男性は笑ってますね」「いや、泣きそうな顔だ」
説明が食い違えば、「どういうことでしょう? 口と目は、それぞれどうなっていますか?」と質問されます。
改めて絵に向き直ると、口角は上がっているのに眉は下がっている。解釈と事実が分離され、議論が一段深くなります。
鋭い質問は、たいてい見えない人から出されます。
「その人はこちらを見ていますか?」「その部屋は、寒いですか?」
見える人はその問いに答えようと必死に絵の隅々を観察し、光の向きや服の厚みや窓の位置を、はじめて「観る」ことになります。
「見る・視る・観る」の本質
ソーシャルビューを経験すると、見えるがゆえに、見えていないことが大量にあることに気づかされます。パッと見て、一瞬で「青い服の男性の肖像画」というラベルを貼ってしまい、貼れた時点で見終わったことにしてしまうからです。
一方で、見えない人には、その近道がありません。だから質問するしかありません。
そして、その「問い」こそが、絵の世界観を引き出し、その本質を言語化する駆動力になるのです。
日本語には「みる」を表す漢字が複数あります。この3つの違いに、じつは「地頭の質」そのものが宿っています。


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