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キャリア・教育 #戦国最強の兄弟の軌跡

誰が「織田家」を主導するか?秀吉か、はたまた信長の息子たちか…《信長亡き後》の天下をめぐる大混乱っぷり

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秀吉(写真:akg-images/アフロ)
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ちなみに新たに得た丹波国の福知山領(京都府福知山市)は秀吉の弟・秀長に与えられました。また会議では、信長の妹のお市の方が柴田勝家に嫁ぐことも決められました。

さて秀吉は清須会議によって多くの所領を取得しましたが、天下人になったわけではありませんし、織田政権を率いる「最高指導者」になったわけでもありません。いまだ織田家の宿老の1人にすぎませんでした。天正10年7月、三法師は秀吉とともに上洛し、都にて諸将から拝礼を受けます。

こうして新たな「織田政権」が順調にスタートしたかに見えますが、すぐに亀裂が入ることになりました。その要因となったのが、三法師が織田信孝の手元に置かれたことです。

本能寺の変で焼失した近江国の安土城が修築されるまでの間、三法師は美濃国岐阜城の叔父・信孝のもとで養われることになりました(安土城の再建は秀吉が担うことになります)。

三法師を手中にした信孝は事実上の名代として振る舞おうとします。つまり、信孝は織田政権を主導しようとしたのです。

信長の葬儀が行われる

当然、兄の信雄は反発を強めていきます。三法師を信孝の手元に置くと決めた時点でこうなることは必然だったと言えるでしょう。両者の対決はいずれ避けられなかったとしても、信雄や信孝の手の届かないところに三法師を置いておくべきでした。

信孝は秀吉に対して、天下統治を主導しようとする野心があると非難し、同じく秀吉に反発する柴田勝家と共闘していくことになります。

不穏な情勢のなか、秀吉が推進・開催したのが亡き主君・信長の葬儀でした。秀吉が信長の葬儀の喪主としたのは、信雄でも信孝でも三法師でもありません。信長の5男(4男との説もあり)で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝を喪主としました。

前述のように信雄と信孝は政治的に対立していました。名代と同じように、どちらかを喪主とすればそれはまたさらなる対立の要因となります。

そこで秀吉は信長の5男で自分の養子・秀勝を喪主として、信長葬儀を執り行い、織田政権における主導権を握ろうとしたのでした。

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