天正10年10月15日、京都の大徳寺において信長の葬儀が行われます。
信雄や信孝そして柴田勝家は葬儀には参加していません。『天正記』(秀吉に御伽衆として仕えた大村由己が著した秀吉の伝記・軍記)には葬儀の警固(安全を守るための警備)の大将は「羽柴小一郎秀長」が務めたとあります。同書によると、大徳寺の周辺などには警固の侍が充満し、その数3万ばかりだったと記されています。ちなみに『太閤記』(江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が著した秀吉の伝記)には1万余と記されており、史料によって違いがあります。
対立が避けられなくなる
さて、錦紗金襴(きんしゃきんらん)で包まれた棺の中には、信長の遺体はなく、香木(沈香:じんこう)で彫刻した仏像が納められていました。本能寺で信長の遺体が発見されなかったからです。
信雄・信孝が上洛し、葬儀の開催を阻止するとの風聞もありましたが、そうしたことはなく、無事に葬儀は終わりました。
葬儀後、秀吉は信雄を擁立することになりますが、これにより信孝・勝家との対立は避けられないものとなっていきます。
(主要参考文献一覧)
・黒田基樹『羽柴秀長の生涯』(平凡社、2025年)
・柴裕之『秀吉と秀長「豊臣兄弟」の天下一統』(NHK出版新書、2025年)
・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社、2025年)


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