結果は全体で2番の成績で合格。朝平さんは三線を奏でながら「かぎやで風」を歌い、一家そろってその喜びを分かち合った。
台北高等学校は自由と自治を尊ぶ校風で、とりわけ外国語教育に力を入れていた。とくに英語は、戦時下で「敵性語」とされたにもかかわらず、軍や行政当局からの圧力をはね返し、週8時間の授業を続けていた。その姿勢を象徴する逸話が残されている。
ある時、英語教育に力を入れていると聞いた軍人が学校を訪れた。これに対し、イギリス留学経験のある中野賢作先生は、「君たちはこれからどこへ進出するつもりですか」と問いかけた。軍人たちが「南方(東南アジア)だ」と答えると、中野先生は「では、南方で行政言語になるのは何ですか」と続けた。
台湾で英語力を磨く
「当然、英語だ」と答えた軍人に対し、中野先生は「わかりました。台北高等学校は指導的人材を育成する学校です。ならば、これからは英語教育をさらに強化します」と切り返したという。
朝清さんにとって、この学校で培った英語力は、その後の人生を大きく左右する財産となった。言わば、この英語教育がなければ、後に妻となるワンダリー・ウィーバーさんと出会うこともなく、ジョンさんや慈英さんが生まれることもなかったのである。
さらに朝清さんは、在学中に国文学者で万葉集研究の第一人者、文化功労者でもあった犬養孝教授の薫陶を受けた。犬養教授は、万葉ゆかりの地約1200か所を自ら歩いて調査し、万葉の風土景観を守る運動を生涯の仕事とした人物である。戦前には台北高等学校で教鞭を執っており、その教えを受けたことは、朝清さんをはじめ同級生や同窓生たちの大きな誇りでもあったという。
1945年、朝清さんは学徒動員された。山中では、アメリカ軍が上陸した際に戦車を迎え撃つための戦車壕を掘るなど、事実上、自爆攻撃を前提とした訓練を受けていた。
ある日、「特別甲種幹部候補生」の選抜試験と口頭試問を受けた際のことだった。すでにアメリカ軍の沖縄上陸から約1カ月が過ぎており、朝清さんは真っ先に手を挙げ、「私は沖縄出身であります。私を最初に敵へ突っ込む兵士にしてください」と志願したという。
戦況が悪化する中、日本軍では将校の不足が深刻となり、短期間で幹部を養成するため、この制度が設けられていた。また、朝清さんたちの先輩の中には、幹部候補生として訓練を受けた後、いわゆる特攻隊として出撃した者も少なくなかった。そのため、朝清さんもまた、自ら志願したのである。

