しかし、第1次世界大戦後の好景気が終わると、長引く不況は川平家にも暗い影を落とした。子どもたちが家計を支えるため学業を中断して働きに出るようになると、一家は台湾への移住を決断する。こうして川平家の台湾での生活が始まった。
台湾への移住に際しては、朝平さんの妻・ツルさんの意向も大きく働いたという。沖縄は男子を育てる環境としては適していないと考えていたからだ。
ツルさんは首里の出身で、本名は花城真鶴(はなぐすく・まづる)。実家の花城家は第一尚氏の流れをくむ名門である。花城家は教育熱心で開明的な家柄として知られ、明治新政府にも賛成の立場だった。そのため、「琉球処分」をめぐって親清国派だった第二尚氏につらなる川平家との縁談は、本来なら難しいといわれていた。
それでも結婚が実現したのは、朝清さんによれば、祖父・朝彬の強い希望があったからだという。朝清さんは、朝彬が時代の大きな変化を敏感に感じ取っていたのではないかと語っている。
ちなみに、ツルさんの叔父は花城長茂(はなぐすく・ちょうも)。現在、松濤館流空手の第一指定型「慈恩」を得意とした戦前の空手界の大家として知られる人物である。
父・朝清さんの台湾生活
朝清さんには、長兄の朝申(ちょうしん)さん、次兄の朝甫(ちょうほ)さん、三兄の朝宜(ちょうぎ)さんのほか、姉が3人いたが、そのうち2人は幼くして亡くなり、千代子さんだけが成人した。朝清さんは1927年、その一家の末っ子として台湾で生まれた。父・朝平さん60歳、母・ツルさん42歳の時の子である。両親はもちろん、兄や姉たちにとっても、朝清さんは目に入れても痛くないほどかわいい存在だったに違いない。
ちなみに長兄の朝申さんは、沖縄初のラジオ日本語放送局を開設しただけでなく、沖縄文化の復興にも多大な貢献を果たした人物として知られる。「三年寝太郎」の沖縄版ともいえる「ねむりむし じらぁ」は、朝申さんの再話によってまとめられ、現在も語り継がれている。
朝清さんが沖縄についてご進講するため参内した際、現在の上皇后陛下から、「あの子(屋外の芝生にいた黒田清子さん)がこの童話を大変好きなのですが、朝申さんはご親戚ですか」と尋ねられたという。兄であることを伝えると、「東京へ来られた際にはぜひご一緒に食事を」と声を掛けられたそうだ。
1940年、朝清さんは名門・台北高等学校尋常科へ進学する。旧制高校は現在の大学、帝国大学は大学院に相当するといわれ、その尋常科は極めて狭き門だった。川平家では、台湾人向け学校で教師を務めていた次兄・朝甫さんを中心に、朝清さんへの猛特訓が始まった。
さらに父・朝平さんは、「合格しなければトゥシビー(生年祝い)はやらない」と宣言した。トゥシビーとは沖縄の風習で、12年に一度、干支が巡る年に盛大に祝う行事である。朝平さんは、数え73歳の祝いを懸けると言い出したのだ。朝清さんは、子どもながらに大きなプレッシャーを感じていたと振り返っている。

