飲食店との最初の直接取引が生まれたのは、2012年のことだ。長女が18歳で一人暮らしを始めることになり、その記念にと食事に出かけた。妻の和子さんは直売所があり、長男の修平さんは高校生だったため、敏雄さんと長女、2人だけの外食だった。
レストランは旅行雑誌で見かけて気になっていた、伊豆・川奈のイタリアン。食事の最中、たまたまシェフと言葉を交わす機会があった。柑橘を栽培していると話すと、「使ってみようかな」と言われた。レストランと直接取引ができることを、このとき初めて知ったという。さっそく納品すると、とても好評だった。
敏雄さんにとって、シェフとの会話は刺激的だった。柑橘に限らず、シェフたちは生産者が丁寧に育てた食材を探し求めていると感じたという。ブラッドオレンジやベルガモットの需要があることも教わり、さっそく苗を仕入れて栽培を始めた。
するとここから、シェフ同士の口コミで広がっていく。伊豆から箱根、そして東京へ。少しずつレストランやパティスリーとの取引が増えていった。
自ら動いたのは、たった一度だけ
とはいえ、販路を広げるために、特別な営業をしたわけではない。ひたすら、品質にこだわり、より良いものをつくってきた。そして、シェフたちと言葉を交わした。取引の多くは、対話の積み重ねから生まれた偶然の出会いだった。
自ら動いたのは、たった一度だけ。
きっかけは、Facebookに流れてくる投稿だった。フレンチのシェフやパティシエがこぞって鎌倉に足を運んでいた。2021年秋、1年遅れの東京オリンピックが無観客で開催された直後、まだ自粛ムードが続く頃だった。
「鎌倉に何があるんだろう」
調べてみると、フランスの三つ星レストランでスーシェフとして腕を振るった佐藤亮太郎氏が帰国し、店を開くことがわかった。2021年9月にオープンしたデザートレストラン「Régalez-Vous(レガレヴ)」だ。佐藤シェフはパティシエ業界では、カリスマ的な存在。敏雄さんと息子の修平さんは、取引のあるパティシエに紹介してもらい、挨拶の機会をもらった。鎌倉に向かったのは、当時25歳の修平さんだ。名刺を持っていなかったため、震える手でショップカードを渡した。
そのとき話題になったのが、バレンタインの催事用のスイーツについて。佐藤シェフが考えていたのは、フランスの伝統菓子「デギゼ」だ。スライスした柑橘をシロップで包み、毎日少しずつ糖度を上げていく。仕上がるまでに3週間ほどかかるという。オファーを受けた敏雄さんは「西の香」という柑橘を納品した。生産量が少なく、市場には出回らない、幻のみかんだという。それから数週間後、佐藤シェフからFacebookにメッセージが届いた。
「最高のデギゼができました。ぜひ銀座(催事場)に来てください」
自分たちの柑橘が、世界で活躍するシェフに認められた瞬間だった。

