八木下農園を営むのは4代目・八木下敏雄さん。「勉強するより、体を動かすほうが好きだった」という敏雄さんは、高校を卒業すると、柑橘類について専門学校(農業技術センター)で2年間学び、20歳で就農した。長男として家業を継ぐのは、当然の流れだと思っていた。
当時、小田原の柑橘の主力は温州みかん。伊予柑やネーブルオレンジなどの中晩柑類は、春先にわずかに出る程度だった。
先代である父・正雄さんは農協へ出荷していたが、価格に悩まされることが多かったという。特に、昭和40年代に起こった温州みかんの大暴落は、関係者に衝撃を与えた。小学生だった敏雄さんは、両親が大変そうにしていると感じていたという。価格が低迷する中、温州みかんの収穫期には人を雇う必要があり、人件費の負担も重かったようだ。そのため家計は苦しく、食事はご飯と少しのおかずだけという日もあったという。なんとか状況を変えたいと考えた正雄さんは、少しでも良い条件で出荷しようと、農協と市場出荷を並行する形に切り替える。やがて農協を離れ、市場出荷一本にした。敏雄さんが就農したのは、その頃だった。
しかし、市場に出しても、思うような値はつかなかった。みかんは産地ごとにまとめて取引されるため、知名度もブランド力も低い神奈川産は不利だった。和歌山や愛媛のような名の通った産地に比べ、その他大勢として扱われる。無名の産地として一括りに見られることが、悔しかったという。
敏雄さんは、自分たちの柑橘を「生産者一人ひとりの作品」だと考える。市場で納得のいく価格がつかないなら、自分たちで売り場をつくるしかない。
「ここで直売所をやろう」
平成の初め頃、倉庫を改装して直売所をつくった。
直売所一本に絞る決断、売上の3割は加工品に
直売所は、伊豆や熱海から東京方面へ向かう国道135号線沿いにある。都内から旅行に出かける人たちが、帰りに立ち寄りやすい場所だ。立地の良さも味方し、少しずつ売り上げは伸びていった。やがて市場出荷をやめ、直売所一本に絞る決断をする。
オープン当初、直売所を切り盛りしていたのは、敏雄さんの母だ。1993年に結婚後は、妻の和子さんも加わった。和子さんは金融機関の窓口で働いていた経験があったため、人と話すことは好きだったという。
その後、「お土産用に加工品も置いてみたい」と考えていたとき、隣町の湯河原に工房があることを知る。さっそくアポを取り、ジャムとマーマレードの加工を依頼した。そこから、ジュース、シロップ、ゼリーと少しずつ種類を増やしていった。今では売上の約3割を加工品が占める。果実の収穫時期に左右されず、通年で販売できる商品として重要な存在になっている。

