明治以降の都市形成を見ると、東京は政治の中心として全国から人が集まる都市になった。旧幕臣、全国各地から集まった官僚、仕事を求めて上京した地方出身者など、多様な背景を持つ人々が混在する都市であった。
そこでは、出身地も言葉も習慣も異なる人々が共に暮らすための新しい都市文化が求められた。互いの背景をすべて共有することは難しいため、全国で通じるように考えられた標準語を使い、一定の距離を保ちながら、多様な人々が共存できる仕組みが整った。
一方、明治以降、近代工業都市として急成長した大阪へ、まずは和歌山、兵庫、奈良、あるいは海路で直結する徳島といった近隣府県から膨大な労働力が先んじて流入した。彼らが定着してマジョリティー(多数派)を形成したことで、大阪の都市文化の基調が形づくられていった。
内部の信頼関係を深めながら発展した大阪
大正期から昭和初期にかけては、沖縄や朝鮮、さらに中国などから日本へ移住する人々もいた。しかし、先に移り住んで多数派を形成していた前述の近隣府県出身者との間には大きな溝があり、後から来た人々は借家を借りることさえ苦労した。出身地を理由に「お断り」の表示を掲げられる不動産屋もあった。
実際、2022年5月に放送されたNHK「ファミリーヒストリー」でも、母方に沖縄のルーツを持つ俳優・北村一輝さんの回で、当時の不動産屋の店頭にこうした断りの表示が掲げられていた事実を伝える資料映像が紹介された。
つまり、大阪に集まった人々は、初めから言葉や生活感覚、商習慣、価値観に共通する部分を多く持っていたのだ。同じ関西文化圏の中で人や産業が循環することで、大阪は外部の異なる文化に一から対応するよりも、内部の信頼関係を深めながら発展していった。
これは大阪の大きな強みでもあった。共通の前提を持つ人々が集まることで、意思疎通は速く、人間関係は濃密になり、独自の商業文化や人情味あふれる都市文化が育った。
その強さには別の側面も存在する。内側で円滑に機能する関係が築かれるほど、異なる価値観や文化的背景を持つ人々と、前提を共有しないまま関係を築く経験は、都市の仕組みとして蓄積されにくい。

