結局、グナイストは週3日ほど談話を続けたが、あまり実のあるものではなかったらしい。グナイストの弟子であるアルベルト・モッセも講義を行ったが、ドイツの憲法上の諸制度についてのもので、やはり参考にはならなかった。
なにより伊藤自身がドイツ語を理解することができなかったため、焦りは募る一方だった。しかも、終始見下されながら、手ごたえをつかめずにいたことで、調査団の内部で伊藤への批判が高まってきた。そのときの伊藤の状況を『文明史のなかの明治憲法』で瀧井一博氏は次のように書いている。
「ベルリンでの伊藤は二重の意味で苦悩を味わっていた。自分の調査が満足に進行してないことに加えて、一行の内部で自分に対する不協和音が高まっていることをも彼は意識せざるを得なかったのである」
まさに踏んだり蹴ったりだった。
シュタインと出会ったことが転機に
そんななか、ドイツでのグナイストやモッセの冴えない講義が夏期休暇に入ったため、伊藤らはウィーンの地に向かう。そこで、ウィーン大学法学部の国家学者ローレンツ・フォン・シュタインと出会い、転機を迎える。
シュタインはウィーンの日本公使館で顧問のような役割を担っており、日本の歴史や政治体制への関心がもともと高かった。シュタインの4カ月にわたる講義を通じて、国家のなかで憲法をどのように位置づけるかを学び、帰国後に「立憲のカリスマ」として活躍する下地を作ることができたのである。
伊藤らの帰国から2年後の明治18(1885)年、近代的な内閣制度が導入され、伊藤が初代内閣総理大臣となった。さらに明治21(1888)年には、明治憲法草案を審議するために枢密院を開設。議長には伊藤が就任し、憲法制定への道筋を立てることになった。
そんな紆余曲折を経て、大日本帝国憲法が公布されたのは、明治22(1889)年2月11日のこと。まさに、『風、薫る』のヒロイン・一ノ瀬りんのモチーフとなった大関和が、帝国大学医科大学第一医院で外科看病婦取締として働いていた頃である。

