政府内では、伊藤の派遣について異論もあったため、なるべくひっそりと視察することになった。横浜から出航するときには儀式すらなく、たった14名という小規模な調査団だったという。岩倉使節団のときは約100名いたことを考えると、随分と心もとない体制だった。
しかも、現地でも散々な目に遭っている。ドイツを参考にすることを決めていた伊藤一行は、ベルリンへ向かった。ベルリン大学の憲法学者・グナイストと面会するためだ。
このときに、伊藤がグナイストから「ドイツ流の憲法理論を学んだ」と説明されることがあるが、実際には伊藤を満足させるだけの答えを用意してくれなかった。
ドイツの憲法学者から見下される
グナイストは「日本のことはよく知らない」と開口一番に告げて「参考になりそうなことは申し上げるが、そちらの憲法編纂の参考になるかどうかは自信がない」と消極的だったのである。
さらに、ブルガリアを引き合いにこんな話をしだした。
「4、5年前に露土戦争が終わって、ベルリン会議が開催され、バルカン諸国が、独立もしくは自由政治を行うことができるようになったときに、ブルガリアが憲法を制定したいと言って、ドイツに依頼してきたことがある。そのとき、ドイツの学者たちは誰も進んでブルガリアの憲法に補助を与える自信がなかった。なぜかといえば、ブルガリアは日本よりは近いので歴史の一部は承知しているけれども、諸種の民族が混合して今日のブルガリアを形成しているので、それについて詳しく誰も取り調べをしていない。それがためにみなが躊躇したのである」
ブルガリアから同じように憲法制定の協力を頼まれたときですら、国の事情がわからないので法学者たちは躊躇したのだから、いわんや、日本ならばなおさら、ということだろう。しごくまっとうな意見だが、続く言葉には、いささか、ドイツの傲慢さが表れている。
「ところで、私の友人のある法学者が〈憲法の作成を進めてみよう。期限6カ月で作ってみせる〉といったので、皆が笑ったが、本当に6カ月でブルガリアの憲法を作成してしまった。帰国した彼が〈銅器にメッキをしたのだから、大した手間はかからない〉と言ったので、みなで笑ったものだよ」
これから、ドイツを模範国として憲法を作ろうと、はるばる来た相手に言うことではないだろう。グナイストの物言いに、伊藤一行が憤慨したことは言うまでもない。

