1944年12月29日には「原子爆弾 軍艦も二キロ上空へ マッチ一つの容量で吹っ飛ばす」と「原子爆弾」の語が登場している。これは27日のリスボン外電をもとにした記事であり、それにイギリス紙『サンデーエキスプレス』の解説記事をつけた形だ。
翌日30日には社説でも「ウラニウム原子爆弾」の語句がある。当時は小規模だが東京でも空襲が始まっている。その備えを説くなかでリスボン外電による原爆の噂に言及したのである。
原爆以外にありえない被害
第2は、広島の被害から原爆投下との判断に至ることである。当時でもそれが自然な結論であった。
爆弾1発の攻撃であることは判明していた。攻撃規模は3機でありうち1機が1発のみを投下した。これについては東京に報告されている。だから翌日の大本営発表でも攻撃は「B29少数機」としている。
それでいて、都市壊滅の大被害も当日の早い段階で推測できた。まず中央部の通信が途絶した。広島の中心部にはいくつかの重要機関があった。陸軍の第二総軍や中国軍管区、59軍司令部、政府の中部地方総監府がある。当然ながら県庁もあった。本来ならそれら組織から空襲被害の報告があるべきだが、それが来なかった。
代わりに周辺部から「破滅的な被害を受けた」旨の報告が来た。陸軍は広島市南端の宇品(うじな)にあった船舶司令部、海軍はさらに離れた呉(くれ)鎮守府からその報告が上がっている。県庁からの報告に関しては証言により異なるが、第一報は海田市(かいたいち)警察署ないし三次(みよし)警察署から上がったとされている。
それからすれば「広島中枢部は壊滅した」との結論に至るのである。

