こういうときに、相談相手になるべきは、本来は医局長である。うちの科では准教授が医局長だった。しかしその先生は、口数少ない孤高の人柄で(メスの切れ味は抜群だった)、ちょっと気安く話しかけられる先生ではなかった。なので、その下のポジションである講師のぼくに、中堅医師たちからいろいろな不平不満をぶつけられた。
確かに彼ら彼女らの言い分には一理も二理もあり、教授は自分の部下たちがどんな手術を何例経験しているのか、全然把握していないのではないか。でも、さすがに教授に直談判など(怖くて)できないので、ぼくはひたすら後輩たちの不満を聞いて、一生懸命に後輩たちを宥めていた。
当時のぼくは、しんどい思いをして話を聞いているという意識は全然なかったのだけど、大学病院を辞めてから何人かの後輩から「あのときは話を聞いてもらって……本当によかったです。グチばかり言ってすみませんでした」みたいなことを言われる。
そうか、そうだったのか。ぼくの励ましでモチベーションを上げてくれた後輩がいたのならうれしい。確かに昔を振り返ってみると、ぼくが相談に乗ることで小児外科の医局を辞めることを思いとどまった若手が何人かいたなと思い出す。ぼくの第1の貢献は、後輩のグチを聞いたことだろう。
「荒れ野」のようだった小児外科の研究室
2番目の貢献は「掃除」をしたことである。
ぼくがまだ若手の頃、千葉大小児外科は、臨床(=患者を治療すること)は1流だったが、研究は1.5流だった。研究をするためには研究費が必要。それを医師たちは文科省から降りる科学研究費でまかなっていた。
ところが、この科学研究費は、一生懸命、申請書を書いてもなかなか獲得できない。お金がなければ研究ができないので、実績が上がらない。実績がなければ科学研究費はゲットできない。悪循環である。
それに千葉大小児外科は、臨床のパワーがメチャ強かったので、医師たちは昼夜を問わず、それこそ365日働いていた。隙間時間に研究する……ということがほぼできなかった。
したがって科学研究費を得る先輩はごくわずかだったし、それも数年に1度みたいな感じ。研究は継続していかないので、小児外科の研究室(病院とは少し離れた研究棟の中にある)は、「荒れ野」のような状態だった。

