「普通、デビュー戦だと自分の少し上の先輩とやるものだけど、それが北沢さんのようなキャリアのある大先輩が相手だったのは、おそらく北沢さん本人が『藤波のデビュー戦は自分が相手しますから』と名乗りを挙げてくれたんだと思うんだよね。
あの頃の日プロはひと癖もふた癖もあるレスラーが揃っていた。それで馬場派と猪木派で派閥が分かれていたようなところがあったので、馬場派の先輩相手に俺がデビュー戦をやったら、グシャグシャに潰されるかもしれないってことで、北沢さんがある部分では俺を守るためにデビュー戦の相手として名乗り出たと、俺はそういうふうに理解してるんだよね」
この派閥を生んだのは、69年7月から日プロが日本テレビだけでなくNET(現・テレビ朝日)の放送も開始したことが原因だった。
日テレとの取り決めで「NETの中継にジャイアント馬場は出さない」という約束から、必然的に猪木が"NETのエース"となり、名実ともにBI砲が二大巨頭になった。それによって、馬場派と猪木派が生まれ、のちに全日本と新日本に分かれる遠因となるのだ。
日プロ改革を風呂場で相談していた猪木と馬場
派閥は生んだものの、日テレとNET両方から放映料が入り、全国各地で超満員を続けていた日プロは、すさまじい収益を上げていた。しかし、そんな絶頂期にもかかわらず、日プロの経営状態は決して安泰とは言えなかった。
上層部は仕事もそこそこに連日夜の街で豪遊。あまりにもどんぶり勘定な放漫経営で、これだけの売り上げがありながら、会社の内情は火の車というひどい有様だったのだ。
当然、馬場、猪木以下、多くのレスラーは上層部に不信感と不満を抱くようになる。そして猪木は、選手会長だった馬場や仲の良かった上田馬之助に働きかけ、日プロの経理に関する不正を糾弾し、上層部追放を訴えるべく動き出す。
まず日プロに経理上の問題があることを突き止めると、所属全選手の署名を入れた上層部追放の嘆願書を作成。それは選手会の要求が受け入れられない場合、全員が退団するというものだった。
しかし、猪木のこの動きは、一部選手のリークもあり、事前に上層部に知られてしまうことになる。慌てた上層部はエース馬場をはじめとした主力選手を懐柔し寝返らせる。クーデター決行直前になって猪木は孤立してしまったのだ。

