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現物給付が増えると「負担増」という通念にさらされる現代社会保障…「社会保険料が重い」と言う人に知ってもらいたいこと

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今年2月、社会保障国民会議の初会合で発言する日本維新の会の藤田文武共同代表(中央)。左はチームみらいの安野貴博党首(写真:時事)

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福祉国家や社会保険を積極的に評価していた経済学者アンソニー・アトキンソン(イギリスの経済学者、1944〜2017年)の最後の著書『21世紀の不平等』(2014年)の序文はトマ・ピケティ(仏パリ経済学校教授)が書いている。そこでピケティは次のように述べる。

「私自身は個人への金銭的給付という発想には昔からちょっと抵抗があったと言わざるをえない。私はたいがい、ある種の基本的な財――教育、医療、文化など――へのアクセス保障に専念するほうが好みだ」。

児童手当など現金給付を重視するアトキンソンを意識して、ピケティはこう書いたのである。

一方、現金給付の有効性を強調した代表的な論者としてミルトン・フリードマン(アメリカの経済学者、1912〜2006年)がいる。『資本主義と自由』(1962年、邦訳1975年)の中で、彼は「負の所得税」について次のように述べている。

「この制度の利点は明らかである。それは明確に貧困の問題に向けられている。それは個人にとって最も有用な形で、すなわち現金で援助をあたえる。それは一般性をもっており、現在実施されている多数の特殊的諸施策にとって替わることができるであろう」。

社会保障の給付は現金と現物で成り立っている

このように現金給付を重視するか、現物給付を重視するかは、社会保障論における古典的な論点である。選択の自由を重視するフリードマンには現金給付の価値は高い。他方、ピケティは、教育や医療などの基礎的サービスへのアクセス保障をより重視する。

その両者の間、相当にピケティ寄りであるが、そうした位置にいるのがアトキンソンであろう。アトキンソンは、児童貧困を削減するための児童手当が不平等削減戦略の中心的な役割をはたすべきであるとして具体的な制度設計を提案したほか、最低賃金のあり方についても多くを論じている。

社会保障の議論では、「負担が重い」という話はよく聞く。社会保険料が上がった、税負担が増えた、国民負担率が高くなったといったものだ。だが、その負担によって何が提供されているのかという話には、政治的な関心は向けられない。

今年1月の大学共通テストで、このご時世の中、勇気ある問題が出ていた。そこには、各国の社会保障財源の対GDP(国内総生産)比を示した表を基に、「すべての国について、『事業主拠出』と『被保険者拠出』を比較すると、事業主拠出の方が高い」という記述の正誤を問う問題があった。また、「経済成長の過程で生じる格差に対応するため、累進課税制度が設けられており、その代表例として( )税がある」という空欄補充問題も出題されていた。

これら4カ国の中では、日本のみが被保険者拠出より事業主拠出のほうが低いことや、累進課税制度の代表例が所得税であることなどは、どちらも社会保障や再分配を考えるうえで重要な知識である。しかし、そこで問われているのは、誰がどれだけ負担しているのか、どのような税制によって再分配を行うのかという話であって、その負担によって何が提供されているのかという視点までは進んでいない。

「負担だけを見る」という構図は、近年の国民負担立をめぐる議論にも表れている。主に2021年度を対象とした国民負担率(ここでは税・社会保険料/国民所得)は、日本は48%で、OECD(経済協力開発機構)36カ国中、上から22番目、下から15番目である。この負担率48%というデータだけが23年の統一地方選挙で取り上げられ、「五公五民」という言葉が飛び交った。

「五公五民」と言う人が見ていないファクト

たしかに、江戸時代には享保の改革以降、年貢率が五公五民とされた時期があった。しかし、徳川吉宗は、あの家には子どもがいるから児童手当や保育サービスを、あの家には病人がいるから医者を、あの家では一家の大黒柱が亡くなり子どもがまだ小さいから遺族年金を、そして高齢者には終身の年金をといった支援を行っていたわけではない。それぞれの家計の必要に応じて、政府が現金給付や現物給付を相当の規模で提供するようになったのは20世紀以降のことである。

ピケティの住むフランスでも、日本を含む多くの国々でも、20世紀に入って拡大した政府活動の大部分は社会保障の発展によるものであった。そしてピケティは、「万人にかなりの拠出を求めなければ、野心的な社会給付プログラムを実施するための国民所得の半分を、税金として集めることは不可能だ」と述べている。

つまり、社会保障という再分配政策は、負担率を眺めるだけでは評価が難しく、その負担によってどのような給付がなされているのかと合わせて評価されるべきものなのである。

ルクセンブルクの87%、フランスの68%をはじめ、日本の国民負担率よりはるかに高い国々が多数存在する今日、日本の48%という数字だけを切り取って「五公五民」と語ることが許容されてしまう。そのこと自体が、負担と給付を一体として捉える社会保障教育の敗北を物語っているように思える。

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