一方で、デジタルによる文字の拡大、音声の併用、重要箇所のハイライトによって、内容に入りやすくなる場合もあります。逆に、情報が増えすぎれば注意が分散し、かえってわかりにくくなることもあります。
また、子ども自身が「合う」と感じることや、大人が「効果がある」と思うことも、必ずしも十分な根拠に基づいているとは限りません。子どもの「使いやすい」は慣れや経験に左右されますし、大人の判断も短期的な反応や一部の成績に基づいていることがあります。直後のテスト得点、時間をおいた定着、読解の深さ、学習意欲、読み書き困難のある子どものアクセス可能性。何を従属変数にするかによって、「有効だった」と言える範囲は変わります。
公平とは「全員に同じ媒体を与えること」だけではありません。共通の学習目標が達成できるように、それぞれの子どもが到達しやすい経路を整えることです。個別最適な学びとは、子どもをばらばらにすることではなく、同じ学びに向かう入り口を複数用意することだと考えるべきです。
同じ教材でも、それを用いる教師の理解や方法論によって効果は変わります。どの順序で提示するか、どこで立ち止まるか、何を強調するか、どの活動と組み合わせるか。教材の効果は、教え方との相互作用の中で表れます。同時に、新しい教材を導入すれば、物的・人的・精神的なコストもかかります。そこに個別最適化まで求められれば、現場が「そんな余裕はない」と感じるのも当然です。
だからこそ、教材そのものが、提示量の調整、音声、拡大、ハイライト、進度の確認などを支え、教師の負担を単に増やすものとしてではなく、授業を組み立てやすくするものとして設計される必要があります。デジタルか紙かという二元論ではなく、子どもの多様な学びを保障し、学習成果を高め、教師の実践を支える条件として教科書を考えることが必要です。
「北欧はデジタル失敗で紙回帰」の誤解
デジタル教科書をめぐる議論で、頻繁に引き合いに出されるのが「北欧ではデジタル化によって学力が下がった」「だから紙に戻している」という説明です。教育先進国とされてきた北欧がデジタル化で失敗し紙へ回帰している。こうした語りは、直感的にはわかりやすいものです。しかし、この説明は教育で本来対応すべき個別性だけでなく、社会政策として考えるべき社会性や地域性も削ぎ落としています。
