「この子が苦しいからさ」「この子がね」。主語は、いつだって、「この子」。
愛猫も安心しきっている。
そして、筆者も前の獣医さんも気づかなかった歯の病気を見つけ、鋭く指摘した。
私にしか聴こえないと思っていた動物たちの声が、この人には聴こえるんだ。
そう、私以上に――。
そして「心臓病だね。薬、高いでしょ。ウチは高くないから」と筆者を安心させた。
獣医さんは、筆者の住所を聞くと大きな地図を広げた。そこには、蛍光ペンでたくさんの印があった。高齢で、動けない動物たち。そうか。この地図は、その末期に寄り添った「やさしさ」の歴史だ。ハッとした。
筆者はこれまで懸命に命を守るため、戦っていた。それが使命だと思っていた。だけど死は、抗うものではない。いつかうちの猫もここに通えなくなる。そうしたら獣医さんは筆者の家に、猫を診に行くことになるだろう。それを見越して彼は地図を広げたのだ。
そんな獣医さんの背中は、優しさに満ちていた。等身大の動物としての「この子」を見て寄り添おうとする姿は、尊く見えた。
声なき動物や人の「声を聴ける」大人たち
帰り道、なぜだか涙がボロボロ落ちて止まらなかった。長年凝り固まった氷のような心が、溶けていくのがわかった。何か特別なことをしてもらったわけではない。私が大事にしているあの子を、心の底から慈しんでくれる人に出会えたこと。そして1人で戦わなくていいという安心感。
そう、この日もっとも救われたのは、筆者自身だったのだ。
人が人を救うというのは、簡単ではない。意外なときに訪れるものなのだ、と身をもって知った。
筆者は取材を通して、「声の聴ける」大人に出会うことで、次第に楽になっていった。そして「よい大人」とは、決して親が示したよい大学、よい会社に勤めるまっとうな社会人ではないと知った。
