家庭の境界線が曖昧になる現象は、SNSをめぐる場面でとくに顕著です。
ある学校では、夜に生徒が私物のスマートフォンでクラスのLINEグループから外され、保護者が翌朝学校に電話を入れたといいます。「クラスのことなんだから、担任が把握して管理するのが当たり前ではないですか」「先生もそのLINEグループに入ってくださいよ」。
この要求は、現場の教員にとってきわめて答えにくいものです。24時間、生徒のスマホの中までを学校が監督することは現実的に不可能である一方、その人間関係が翌日の教室にそのまま持ち込まれるのも事実だからです。「無関係」と切り捨てることもできず、「全部把握します」と引き受けることもできない。グレーゾーンに立たされたまま、教員は対応の労力を割き続けることになります。
文部科学省の調査でも、いじめの認知件数は令和6年度に約76万9000件、重大事態は1405件と過去最多を更新しており、SNS上のトラブルがその一定割合を占めることが指摘されています(※2)。もちろんこれは単に「いじめが増えている」ということではなく、「いじめの『発覚』が増えている」ということになり、今まで埋もれていた事案を発見できているという意味でもありますが、それはそれだけ学校現場が対応しなければならないことが増えてきているということでもあります。
にもかかわらず、夜間のSNS上の出来事を学校がどこまで引き受けるべきかという問いに、明確な制度的回答はまだ存在しません。結果として線引きは現場任せになり、踏み込んだ教員ほど消耗していく構造が定着しつつあります。
「合理的配慮」という言葉が広げる射程
もうひとつ、家庭と学校の境界線を曖昧にしているのが、「配慮」をめぐる要求の広がりです。
「習い事があるから宿題を減らしてほしい」「受験生なので宿題をなくしてほしい」「受験で休みがちになるからリモートで授業を受けさせてほしい」――こうした要望が、しばしば「合理的配慮ですよね」という強い言葉を伴って持ち込まれます。
合理的配慮はもともと、障害のある児童生徒が他の児童生徒と等しく学ぶための調整を指す制度的概念であり、文部科学省の定義のもとで運用されてきました(※3)。それが家庭の事情やスケジュール調整の文脈にまで拡張されると、学校は事実上「家庭の都合に合わせて運用を変える機関」へと変質していきます。

