さらに驚くべきことに、米中央情報局(CIA)までもが、多様性や包摂性をアピールする動画を公開し、「CIAで宣誓しているとき、当時のブレナン長官のネクタイピンがレインボー・カラーなのに気づいた私の胸を想像してみてください」などと語らせている。
もはやアイデンティティ政治は、権力を脅かすどころか、企業や国家機関に都合よく消費され、社会正義を骨抜きにする役割を果たしているのだ。
アイデンティティ政治は、言葉の使用にも厳しい監視の目を向ける。私たちは、合理的な相互尊重の範囲を踏み越え、他者の発言を取り締まることに執着するようになった。
SNS上では、毎度同じような筋書きに沿った社会的排斥のメカニズムが動き出す。
排斥する側は実際に起こったことの一面だけをシェアし、直ちに懲戒を求める。すると1日もたたずに排斥の声が至る所で上がり、非難と辱めのサイクルが回り出す。
この「怖いから同調しておこう」という空気が、社会的な排斥を恐れるあまり、ある概念が適切に適用されているかどうかを問えないような政治文化を進歩派が作り出してしまったのだ。
滑稽なほど低い「有害」のハードル
このような文化は、あるものが有害であると認定する基準を滑稽なほど低いレベルにまで下げてしまう。
たとえば、2022年のガーディアン紙の記事で、あるヨガの実践者は「白人だらけのスタジオ」でヨガをすることが、有色人種にとって「トラウマになる」と大まじめに語った。
白人だけの教室でヨガをすることが「トラウマになる」のなら、人種差別的な警察の嫌がらせや権力乱用などの体験を表現するのに適した言葉がなくなってしまうではないか。
起こった出来事に対する感情的な反応が、その出来事の実際的な深刻さと完全に乖離している。具体的な優先順位が明確でなければ、被害者感情と抑圧競争のカルトが蔓延するのだ。

