SNSを介したデジタル空間では、「注目(アテンション)」が収益化できる商品であると同時に心理的な報酬となっている。私たちは情報過多の、「注目」が限定的な資源となる環境に住み、他者の「注目」を奪い合わなければならないと感じている。
その結果、自分自身を被害者として提示することが、有力な個人ブランドになる。被害者感情は、抑圧というものを他者と共有する連帯へとつなげるのではなく、自分が苦しんでいる状況に執着させ、他者によって認知され、確認された状況になることに執着させる。
そして、権威があるかのように振る舞い、他者の脆弱な立場を排除し、取り締まり、果ては暴力を振るうための口実として利用される場合もあるのだ。
孤立を超えて「連帯」を取り戻すために
左派が目指すものは何か? 単に耳を傾けてもらい、1人の個人として見られている、認められていると感じるためか? 見られていると感じたことで、世界が変革されたことはなかった。
マルクスとエンゲルスは『共産党宣言』の中で、「これまでの歴史的運動はすべて少数派の運動、または少数派のための運動だった。プロレタリア運動は、圧倒的多数派が圧倒的多数派のために行う、自覚的で独立した運動である」と記した。
被害者感情というカルトは連帯のプロジェクトを腐食させる。それは人間同士のきずなを損ない、私たちを相互に対立させる。
私たちは、互いに「注目」を奪い合い、抑圧を競い合う個人に分割されるのではなく、圧倒的多数派の階級としての力を取り戻さなければならない。
被害者感情にしがみつく歪んだ誘因に抗い、孤立を超えて真の連帯を取り戻すことこそが、私たちが直面している危機に立ち向かう唯一の道なのである。

