近年、「リブド・エクスペリエンス(生きられた体験)」という概念が注目を集めている。
これは世界に直接触れることによって得られた、個人的な知識のことを指す。それ自体は何ら悪いものではなく、貴重な情報の源泉である。しかし、危害から逃れようと闘う代わりに、「被害者であること」がもたらす社会的地位にしがみつくようになると問題が生じる。
私たちはもはや絶対的な真実を語ることはなく、「私の真実」を語るのみだ。
主観的な判断は、被害者という「玉座」から発せられたり、「リブド・エクスペリエンス」という称号を授けられたりした場合、神聖なる地位を与えられる。誰かのリブド・エクスペリエンスに疑義を差し挟むことは、その人のアイデンティティそのものを不当に傷つけることだと見なされるようになってしまった。
私たちは実体的な真実という発想を窓から放り捨て、感情的、社会的に最も都合の良いものに同意する道を選んできたのである。
CIAや巨大企業に都合よく消費される「多様性」
アイデンティティ政治の概念が反資本主義的だった起源からどれほど遠ざかったかを知りたいなら、「DEI(多様性、公平性、包摂性)」のお墨付きを得たい企業がどれだけ熱心にそれを採用してきたかを見るとよい。
たとえば、白人が有色人種に対する人種差別の影響を無視していると批判した著書『ホワイト・フラジリティ』が大ヒットした後、著者のロビン・ディアンジェロの顧客にはユニリーバやアマゾンなどの大企業が加わった。
彼女はコカ・コーラ社の社内イベントでワークショップを開き、参加者に「より白人的でなくあれ」と指示して論争を巻き起こした。コカ・コーラのような大企業が反人種差別のための研修を行うという事実自体が、そうしたワークショップが富や権力を持つ人々の利益を脅かす存在ではないことを物語っている。

