小説では、例えば「コップに少しコーヒーが入っていた」と書かれていても、そのコップの色やひびまでは見えません。映画なら、50年前、何十年前の暮らしの細部が映る。映画そのものより、庶民生活を知るための窓として見ていました。
そのうち映画人に会うようになり、本人と話すようになると、こちらも勉強しなければならない。そうして台湾映画の資料を集めるようになりました。
――雑誌『東洋思想』はその後、雑誌『台湾映画』に移行します。
第2期『東洋思想』の内容に台湾映画関連の記事が増加したので、当時の台湾映画界の状況を1年ごとにまとめて記録する目的で『台湾映画』の刊行を始めたんです。2006年に創刊し、現在まで20年間、年刊で継続して刊行しています。
刊行目的には、私の主要な研究テーマが日本統治下の台湾映画史であるため、現代に近づく時代差を補完するためのというのもあります。
二・二八事件の最中、映画館は開いていたのか
――台湾で上映された映画の目録も作られたと聞きました。
日本統治時代から戦後にかけて、台湾で上映された映画の目録を作りました。台湾映画だけでなく、洋画、中国映画、日本映画も含めてです。全部で目録は4万7千件、図版は1800枚ぐらいになりました。完成まで20年ほどかかりました。
調べていくと、意外なことが出てきます。例えば戦後すぐの台湾では、中国共産党の映画やソ連映画も上映されていました。また、台湾住民と国民党政府との間で激しい衝突が起きていた二・二八事件の時期にも、映画館は開いていたのです。
最初にそれを台湾の友人や二・二八事件の専門家に話すと、少し馬鹿にされました。「あれだけの大混乱のときに映画館が開いているはずがない」と。しかし新聞には毎日のように映画広告が出ている。上映時間も書かれている。
「それは国民党の策略で、社会が安定しているように見せるために広告だけ出したのではないか」と言われたこともあります。けれども、そこまでするだろうかと思い、さらに調べました。2年ほどかけて、西門町の近くに住んでいた方に会うことができた。その方の父親は映画館の支配人で、本人も当時を覚えていました。二・二八事件の頃、映画はどうでしたかと聞くと、「2日に1回は見に行っていました」と言うんです。
新聞資料にも、映画館の収入が半分になった、飲食店の収入も半分になったという記録がありました。つまり、平常通りではない。しかし完全に閉まっていたわけでもない。資料と証言がつながったとき、台湾の友人たちも「そういうことだったのか」と受け止めてくれるようになりました。
台湾で日本映画はどう受け入れられたのか
――戦後、台湾における日本映画の扱いはどう変わったのでしょうか。
45年に日本の統治が終わり国民党が台湾を接収すると、日本映画は一度、全面的に禁止されます。日本教育や日本の影響を断ち切るという意味があったのでしょう。ただ、台湾の人々は日本のことを知りたがっていた。
49年か50年頃になると、何本か日本映画が入るようになります。例えば、ソ連抑留を描いた反共映画の『ダモイ』、続いて『青い山脈』です。『青い山脈』は台湾でも、よく見られました。
その後、日本映画界と交流もありました。石原裕次郎が主演し、台湾で撮影した『金門島にかける橋』もそうです。日本版と台湾版では結末が違うとされています。日本版では石原裕次郎演じる人物が台湾の女性と結婚する。一方、台湾版では、中国側からの砲撃で彼が吹き飛ばされ、女性は国民党の軍人と結婚するという内容でした。この作品は台湾で上映されました。ただ、台湾版の現物がいまだに見つかりません。
