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台湾映画の歴史を掘り起こし続けてきた日本人研究者の半生、その原点は「仙人になろうと思って台湾へ来た」

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台湾映画を研究している川瀬健一さん
台湾映画の歴史を追い続けて日本にも伝えてきた川瀬健一さん(筆者撮影)
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当初は、私も中国語があまりできないし、相手も日本語ができない。言葉は十分に通じませんが、それでも会って話す。必要なときには、少し日本語のできる方が間に入ってくれました。

巨匠・侯孝賢とあわや大ゲンカ寸前

――映画『悲情城市』で有名な侯孝賢監督とケンカになったそうですね。

95年頃、彼の事務所に電話をしたのですが、待てど暮らせど返信がない。何度もそんなことが続いて痺れをきらし、私は侯さんに直接電話をして、「マネージャーの非礼をなじり」ました。侯さんは怒って「そんなことは秘書に連絡してくれ」と言うので、「あなたは常々義理と人情の男だと公言しているが、ただの嘘つきではないか。何が義理と人情の男だ!」と言い返したのです。

侯監督は激怒して「来るなら来い!」と怒鳴りました。私は「今からすぐに行く!」と、その場からタクシーで、すぐさま彼を訪ねたのです。

二・二八事件を描いた映画『悲情城市』の監督として知られる侯孝賢監督(右)と2015年に撮影(川瀬さん提供)

事務所には、オーデション中のたくさんの俳優たちがいたんですけど、侯監督はもう怒ってなくて、「忙しくて……」と言いながら拍子抜けするぐらい親切に出迎えてくれました。このケンカ腰での初対面が印象に残ったのか、侯孝賢さんにも良くしてもらいました。

――台湾現代文学を代表する作家で、多くの作品が映画化もされている黄春明さんとも親しくされています。

黄春明さんとは90年代後半から会うようになりました。数十回にわたる交流のなかで、黄春明さんが激しく怒り、机を叩いてそのまま席を立ってしまったことが何度かありました。もちろん、私に怒っていたわけではありません。話題に強く反応し、感情が一気にあふれ出るのです。

例えば、李登輝さんの選挙のときに中国がミサイルを撃った話などになると、ものすごく怒りだすのですよ。私はそれを、芸術家としての強烈な個性なのだと受け止めていました。

そうした時間を重ねるなかで、彼の波乱に満ちた人生についても、さまざまな話を聞くことができました。家出をして電気店で働いていた頃、ラジオ修理のために訪ねた台北旧市街の萬華の女性たちとの会話が、後の小説を書くうえでのヒントになったことや学生時代にはラグビーに熱中していたこと。そして教師になったときには、「あのケンカ太郎が教師に」と言われるのが嫌で、故郷から遠く離れた山の学校に赴任したことなどです。

なかでも印象に残っているのは、彼が学校を退学になった時の話です。友人に頼んで好きな女性にラブレターを渡してもらった翌日、掲示板に赤点を取った自分の名前が貼り出されているのを見つけた。彼女に対して面目が立たないと思い、その掲示を破り捨ててしまったため、退学になったというのです。いかにも黄春明さんらしい、激しさと照れと、人間味がそのまま表れた逸話だと思います。

作家の黄春明(右)とも交友を温めてきた(川瀬さん提供)

しばらく連絡が途絶えた時期もありましたが、近年、私が台湾映画について書いた雑誌を送ったところ、食事会に黄春明さんご夫妻が来てくれた。私が送った雑誌を持ってきて、「これにサインしてほしい」と言うのです。大先生にそんなことを言われて、こちらが困ってしまいました。薬を飲みながら、2時間半から3時間近く、小説や童話、絵、台湾の自然について話していただきました。ご高齢になっても、希望に燃えて目標に向かって毎日を過ごしておられるのに感動しました。

映画を見たかったのではなく、庶民の生活を見たかった

――もともと映画がお好きだったのですか。

映画に特別な関心があって台湾へ来たわけではありません。関心はありましたが、最初から映画研究をしようと思っていたのではありません。

ただ、台湾は戒厳令下でした。社会のことを知ろうとしても、見えない部分が多い。私は台湾の庶民の生活を知りたかった。そこで、当時、博物館の近くの交差点でVHSを売っている人から、台湾映画らしいものを毎回何本か買って帰りました。

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