マイノリティ支配は本当のマイノリティ支配の形態を見えにくくさせ、支え、拡大させる働きをする。労働者階級の怒りの矛先を経済的、政治的不平等からそらせ、スケープゴートにされたアイデンティティ少数派に向かわせる。金融エリートはこの大きなストーリーには登場しない。
メディアや政治にはびこる誇大妄想と憤怒をてこに、支配階級はマイノリティ支配のストーリーを利用して、経済的マジョリティ(すなわち、資産ではなく賃金で暮らしていかなければならない私たちのような人々)を、文化的に対立するマイノリティ・グループに分断する。本来であれば同じ階級に属する人々と共通の目標を掲げたであろう者たちが、他者を悪玉、自分たち自身を被害者だと考えるように仕向けられる。
政治の「観戦スポーツ化」とアテンションの罠
選挙のない時期に私たちが日常的に政治を経験する場所はと言えば、それは費やす時間が伸びていく一方のスクリーン上だ。私たちは携帯電話やコンピュータを延々とスクロールし、親類や見知らぬ人々と議論する。記事や動画を共有し、まるで命がかかっているかのように投稿する。
メディアを通じて私たちが得る世界のイメージは、遊園地の鏡の部屋のように歪められ、ねじ曲げられている。
気候危機や人口の高齢化などの大問題も、今週の政界における政治家の盛衰などと比べれば些事だ。
評論家やコメンテーターのパネルディスカッションは、生活水準が低下している理由を論じ合うためではなく、コメディ番組が人種差別的かどうか、ヘンリー王子は称号を剝奪されるべきかどうかといった諸事を話し合うために招集されている。
私たちの社会が直面している体系的かつ実存的な危機に引き比べれば、これらの問題は取るに足らず、それをグロテスクなまでに誇張するのは現実操作に他ならない。

